一杯の水を飲ませてくれる人

マルコによる福音書9章38~41節

 「誰が一番偉いか」(35節)と争った主イエスの弟子達の一人であるヨハネは、自分達こそが主イエスの弟子というような特権意識を持っていました。又、神に精一杯仕え、仕えれば仕えるほど自分達の権威を確立していくものと考え、自分達の仲間ではない人々が主イエスの名を使って悪霊を追い出している業は(39節)、自分達の働きを妨げるものとなるとも考えていたのです。
 そのような考えを主イエスは否定されました。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(41節) 誰にでも親切に人助けをせよというヒューマニズムの教えではありません。「キリストの弟子という理由で」というお言葉に注目します。当時のキリスト教は、ユダヤ教や皇帝礼拝を強いるローマ帝国からも迫害を受け厳しい状況にありました。故にキリストの弟子に水一杯を差し出す行為は、危険を伴い犠牲を覚悟の上です。これこそが真実な隣人愛であり、そのような行為を神は必ず顧みられると約束をしておられます。一方弟子達は、自分達の為し得た行為にばかり目を留め、いよいよ傲慢になっていたのです。
 私達にとって大切な事は何をしたか、何ができるか、ではなく、犠牲をもって水一杯を差し出す事すらできない心の貧しい者だという自覚です。乏しさを覚えるよりも、ほんの小さな業を一つしただけでもさも大層な事をしたと、思い上がる人間です。こんな事ができると誇る事は得意ですが、こんなこともできないという思いに鈍感なものだという事を痛切に感じます。
 「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」(マタイ5:3)人は他者の痛みや悲しみを受け止めようとする心が乏しく、愛・忍耐等足りない者です。しかし素直に認める事ができずに弟子達の如く、却って傲慢に振舞い兼ねません。その只中に私達の貧しさを見つめ、深く憐れんでくださるお方が主イエスです。この御方の真実こそが、私達の全ての貧しさを「幸い」に変えてくださいます。罪なきご自身の命を十字架につけられ救いを成し遂げてくださった事により、私達を天の国を受け継ぐ者とさせてくださいました。
私達が傷つき倒れている時に、先ず一杯の水を、永遠の命の水を与えてくださいました。この原点を忘れて、自己中心の歩みを繰り返しているような私達ですが、ルター曰く「神の実現された救い」という土壌に移し替えられ「神の憐れみ」という栄養を日々接種して育てられている事に期待して参りましょう。