きずや汚れのないキリストのように

ペトロの手紙一1章13~20節

 私達は目の前の苦しみや痛みを取り去って頂きたい、日々、平安な穏やかな人生を送りたいと待ち望むものです。しかし、神は「・・・イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」(13節)その為には「あなたがたは聖なるものとなれ・・・」(16節)と仰せられます。そもそも「聖」とは、通常のものから区別されている、分離という意味です。神は人間を超越した、全く違った別格の御方です。この事を「神は聖なる方であられる」と表わしています。
 罪、汚れに染まっている私達に「聖なるものとなれ。わたしは聖なるものだからである」(16節)、という御命令は無理難題と思われますが、明確な根拠があるから要求されるのです。それはイエス・キリストの十字架の死と復活によって、あなた方は罪赦され、新しく生まれ変わり既に神のものとされているという前提です(18~25節)。罪救われた時から既に、主イエスによって私達を聖別してくださって神に属するもの「聖なるもの」とさせて頂いています。
 故にこの世の人々と同じような生活をするのではなく、分離されたものとなりなさいという事です。それは隔離されて仙人のような生活をしなさいという事ではなく、又、神を知らずに救われていない人を差別して、驕り高ぶりを持って生活せよ、という事でもありません。神の者とされた自覚を持つ事です。
 神の方からこのように全てを整えてくださったのですから、私達は「いつでも心を引き締め、身を慎んで・・・」(13節)、と畏れをもって神の御前に立ち続け、神との関係を持ち続ける事によってのみ「聖なるもの」とさせて頂けます。どのように立派な物であっても、神との関係がなければ単なる物でしかありませんが、例え粗末な物であっても、神のご用の為に用いられるなら、それは貴い物と聖別されるのです。それと同じように私達は神の前に立ち続ける事によって、神に用いられて確実に「聖なるもの」とさせて頂き、成長し益々尊い「聖なるもの」とさせて頂けます。
 宗教改革者ルターは信仰の行為を藁一本でも貴いと言っています。神に感謝してそれに応える行為であるなら、小さい行為でも貴いのです。神の感謝から神への行為は生まれ、感謝と喜びがなければ神に従う事はできません。私達の目標はやがてイエス・キリストが再びおいでになられた時に、天に挙げられる事です。この最高の喜びに備える為に感謝して聖なる者とさせて頂くのです。