信仰のないわたしを助けてください
マルコによる福音書9章14~29節
本日の箇所は信仰、祈りの神髄が凝縮されています。十字架へと向かう主イエスの前に、病に苦しむ子供の父親が助けを求めてきました。その子は「…口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせて」苦しんでいました(13節)。幼いときからと、記されていますからおそらく長い間に亘って、ありとあらゆる治療を施した事と思います。しかし誰も癒す事もできず、弟子達にもどうする事もできませんでした(18節)。しかし、このようなどうしようもできない現実に「信じる者には何でもできる」(23節)と挑戦してくださるお方がおられます。それが聖書が示している救い主イエス・キリストです。
「信じる者」とは主イエス御自身の事です。「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで」父なる神を信じ従い、十字架への道を歩まれ復活された事によって、私達罪びとを救ってくださいました。神を信じ続けて従った主イエスが、唯―何でもできるお方です。そのお方の力を私達は信じるのです。
人々がその子を主イエスの所に連れてくると、その子の父親は「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」(22節)と、訴えました。すると主イエスは「できればというか。信じる者には何でもできる。」(24節)と、仰せられます。この父親の消極的な態度に対して、挑戦しているようなお言葉です。すると即座に「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と、主イエスの憐れみにすがったのです。(24節)この日父親は、主イエスの力に委ねきる事ができない「信仰のないわたし」に気づいた事は大きな恵みです。
その事を気づかせたのは息子の病気でした。息子の病よりも、自分が先ず助けられなければならない存在である事に気がついたのです。しかもそれは自分のほかならぬ信仰の問題である事に気づかされました。問題はこの自分にあると気づくべきこと、しかも自分の信仰に思いを向ける必要があります。そして、「信じる者には何でもできる」と、仰せられる主イエスに心を寄せ、信じて歩めることが、私達の生きる力と希望となっていきます。
私達は様々な問題に直面すると「いったい自分の信仰はどこにあるのだろうか」と、自分の信仰などちっぽけで危ういものという事を知らされるものです。だから「信仰のない私を助けてください」と、すがる祈りしかありません。これが私達の真実な祈りです。「信じる者には何でもできる」と十字架の道を進まれた主イエスに従い導かれている私達は幸いです。