いったいどこから
マルコによる福音書8章1~37節
4千人の人々が7つのパンとわずかな魚によって満たされたという奇跡の出来事が記されています。同じように6章30節以下においては5千人の人々が5つのパンと2匹の魚によって養われたという出来事が記されています。弟子達は神の御業を見せて頂きますが、暫くして新たな困難な場面に遭遇すると以前の恵みは忘れ、不安に陥るのです。私達も同様です。そのような者に神は何度も繰り返し教えておられます。「群衆がかわいそうだ・・・」(2節)と、ありますように、そこにあるのは唯、神の憐れみです。
「かわいそうだ」(2節)とは、「憐れむ」という言葉です。それは単に同情するというような意味ではなく「内臓が揺り動かされる」程の痛みを伴うほど、心が痛むという強い意味です。7章34節においても「天を仰いで深く息をつき・・・」と、主イエスは苦しみを覚えている者、色々な意味で飢えている者を深く憐れんで、神の方から私達との関わりを持ってくださっております。
これらの給食の奇跡において、自分の力でどうしようもない、という問題を前にして主イエスは自分達の手にあるものを確認させ、持っている僅かなもので満たしてくださっております。様々な事を通して「これしかない」「いったいどこから」(4節)と、嘆き不安に陥りますが、心配する必要はありません。常に主イエスは私達の困窮を憐れんでくださり、手元にある僅かなものを祝福してくださり、満ち溢れる恵みを与えてくださるお方ですから。これが私達の信仰です。
主イエスはこれまでガリラヤ湖畔を中心に福音を宣べ伝えておられましたが、いよいよこの後、ご自身の十字架の受難の死と復活を教え始めます(8:31~)。その前に主イエスは、憐れみの主であることを示されました。裁きを行われる神が「憐れみの神」でもあることを。罪人を憐れんでくださるお方ですから、私達は救いに与っているのです。そうでなかったら滅ぼされています。
自分の手元にある僅かなものしか見えず、そこに固執し頑固で神の憐れみが分からない鈍い私達です。しかし、その憐れみにすがって生きるように、主イエスは命を惜しまず私達に与えてくださったのが、十字架の出来事です。
「いったいどこから」と、嘆く私達に「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」(詩編121:2)と、神の憐れみが顔を上げさせてくださるから、私達は歩む事ができるのです。憐れみにすがる者を神は祝福してくださいます。