クリスマスの出来事

マタイによる福音書1章18~23節

 1章の初めには、イエス様がお生まれになるまでの系図がありますが、人間の能力や優れた血筋が記されているのではなく、罪と嘆きの悲惨な歴史です。そのような暗闇から「自分の民を罪から救う」(21節)ために、神がイエス様をこの世に遣わされたのがクリスマスです。
 神はその為にヨセフとマリアを選ばれました。「…母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」(18節)そこにあるのは喜びではなく苦悩と葛藤でした。「聖霊」によるとは、神の力によるという事で、イエス様の御誕生は人間が生み出したものではなく、又、私達が受け入れる準備があるといった訳でもありません。人間の思いや常識を遥かに超える仕方で起こった、予想外の出来事がクリスマスです。
 当然ながらヨセフは悩み抜き、このような出来事を受け入れる事はできませんでしたが(19節)、「…恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」(21節)との神のお言葉に、自分の思いが覆されて神の御旨に従いました。自分の計画や決心にも拘らず、ヨセフ自身が、聖霊=神の力によってその判断や決心が変えられたのです。「ヨセフは正しい人であったので…」(19節)と記されていますが、ヨセフはそれまで自分の正しさを基準として生きていたと思われます。しかし彼は神の力に突き動かされて自分の正しさや、自分の思いを突き通す事ではなく、神の御思いに寄り添って歩んでいく神の御前にある正しさを知ったのです。そうして人は神という方が、この自分にとってどのようなお方かという事を体験して神を知っていく事になります。
 この世は自分の思い描いた通りの人生を歩む事を幸福といい、何にも動かされない「不動の境地」を求めて自分の正しさを全うしようとします。人間は本来、神に深く動かされて養われて生きていくもので、それを信仰の歩みといいます。それを拒否する事を罪と言います。そのような罪深い私達にも拘らず神はクリスマスにイエス様を送ってくださいました。「わたしは世の終りまで、いつもあなたと共にいる」(マタイ28:20)と、罪人である私達を救ってくださり寄り添い養い続けてくださっております。この世の中で何に出会い、何よって動かされていくかによって私達が生きる意味と価値が明らかにされていきます。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであたながたを満たし、聖霊の力によって希望にみちあふれさせてくださるように。」(ローマの信徒への手紙15章13節)