起きて食べよ
列王記上19章1~8節
福音伝道はパンを水に浮かべて流す(コヘ11:1)かのようであり、一朝一夕に成果は上がらない。エリヤのように絶望(4,10,14)された経験をお持ちのキリスト者は沢山おられることだろうが、途中で断念することなく何度でも絶望を乗り越えてその報酬を手にした者は極めて少ない。しかし、もう大丈夫。今朝、主はその答えを列王記上19章1~8節を通して私たちに示して下さった。
●触れて下さる神(5,7)…主は私たちを深く愛しておられ(イザ43:4,ヨハ3:16)、私たちが絶望の淵に死んだように倒れ動けなくなっても、主は私たちを捨て置かれることなく、必ず御使いを遣わして(或いは直接)、私たちに触れて下さるのである。主に触れていただけるとは何という幸いだろうか。主に触れて頂くならば、打ち砕かれた私たちの魂は霊に満たされ、身も心も瞬く間に癒やされ、至高の喜びに満ち溢れることになる。ハレルヤ!
●「起きて食べよ」と命じて下さる神(5,7)…慈愛の神のたった一言葉で私たちは満ち足り、心は喜び踊る。イザ55:11は主の御言葉には力があり、全ては必ず御言葉通りになるとの宣言である。主が私たちに「起きよ、食べよ。」と命じて下さる時、朽ち果てたはずの私たちは主の御言葉通り、起きて食べて飲むことが出来るのだ。ハレルヤ!
●食べ物・飲み物を与えて、力づけて下さる神(6,8)…エリヤは命を狙われ、たった半日歩いただけで絶望し「もう十分です」と嘆いた(4)が、神の食べ物に力づけられて全く変えられ、「あなたには耐え難い」(7)とまで言われた旅路を四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに到達した。神の給わる食物は単なる食物ではない。主イエスが言われたように『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』(マタ4:4)のであり、エリヤが「起きて食べた」のは、絶望する魂の飢え乾きを癒やし、潤し、聖霊で満ち足らせ、全く新たな者へと生まれ変わらせる神の御言葉である。主イエス・キリストこそ神が与え給うた命のパン(ヨハ6:35,48)、主イエスから頂く水こそ命の泉の水(ヨハ4:14,黙示21:6)である。神の御言葉によって満たされ、どんな困難をも乗り越える者へ変えて頂こう。ハレルヤ!
●最後に…さぁ今朝こそ主に触れて頂き「起きて食べよ」と命じて頂こう。霊的食物なる神の言葉・命のパンを食して力を得て、伝道に邁進し、神の山ホレブと更にその先にある天の御国へ、愛する者と共に入国しよう。ハレルヤ!