主イエスは父の家に
ルカによる福音書2章39~52節
ここは少年イエスに纏わる唯一の聖書箇所であり、御子は若干12歳にして「神の子」の片鱗を示された。過越祭の宮詣でを終えた帰路中、我が子の失踪に気付いた両親は、必死になって捜索し、エルサレム神殿に我が子を見出して叱責した。するとイエスは不思議な言葉を語った。
「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(49)
エルサレム神殿を「我が父の家」と呼ぶことは自身を“神の子”とするに等しかったが、神殿に集う学者たちは未成年(13歳未満)の戯れ言としてイエスの言葉を聞き流した。しかし、教会に集う私たちキリスト者はこれを聞き流してはならない。主イエスは「父なる神の独り子」であり、その十字架によって私たちを贖われた救い主である。私たちにとって「父の家」とは「天の御国」であると同時に「教会」である。教会とは建物ではなく、二人または三人が御名によって集まるところを指し、そこには必ず主イエスが居られる(マタ18:20)。
ところが私たちは、教会生活の中で神を見ずに人を見て躓くという経験を何度もしてきた。兄弟姉妹に罪を見出し、目くじらを立て、或いは落胆し、神を見失い、キリストを探し求めて彷徨い、世の様々な悪や災いを見て愕然とし、再び教会に戻ってきた方も少なくない。そんな私たちに主は、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と言われる。
教会こそ罪人の集う所であり、よくよく霊の目を凝らすならば罪人なる兄弟姉妹の背後には必ず十字架のキリストが居られ、私たち自身の背後にも贖いの主が居られることに気付く。私たちが敬虔さという装いを脱ぎ捨て、互いに罪を告白する時、互いの罪の力は消え失せ、許し合い愛し合う兄弟姉妹の集う真の教会となる。再臨の主によって携挙され、真の神の家に住まう恵みの約束を覚えつつ、主イエスの御身体なる教会に集い、神を賛美し感謝と祈りを献げよう。主はここに居られる。在主