小さく生まれて大きく育つ

マルコによる福音書4章26~34節

 主イエスが語られた福音は、神の国・天国の到来を告げるものです。神の国とは地図にある特定の国ではなく、神の御支配の下にある所を指します。地上の世界には何百という国がありますが、霊的な見方をするなら、神の国と地獄=サタンの国の二つしかないと言います。この二つの間には絶え間ない闘いがあって、私達はこの二つの国を行ったり来たりしているような毎日を送ってはいないでしょうか。神の国・天国の市民として定住する信仰生活は、神の御業を期待しながら喜びの内に前進していきます。
 神の御支配は主イエスのご降誕から既に始まっており、現在進行形で着実に拡大し私達の内に少しずつ実現されています。革命的でもなく、急進的でもなく、私達が夜昼寝起きしている日常生活の繰り返しの中で徐々に大きくなって、確実に全世界へと広く行き渡る時が来ます。どのように拡大し成長するのか、成長する種の譬えとからし種の譬えをもって主イエスは語っておられます。
 「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせる」(26~28節)種を蒔く人は努力をしますが、後は「ひとりでに」育つのでその過程は隠されています。神の御支配も人間の業で完成するのではなく、全ては神の御手の内です。目に見えず神秘ですが確実に御業は進んでいます。最終的な神の御支配は、一ミリにも満たない極小のからし種の粒が、3~4メートルにも成長して鳥が巣を作れるほど大きな枝を張るように拡大します(31~32節)。最後に神が刈り入れをなさいますが、それは審判の時です(29節)。全てが神の御手の内にありますから、神がご覧になって豊かな実を刈り取られます。私達が豊かに見えているようであっても、神の目にはどのように映るかは分かりません。反対に自分では駄目だと思っても豊かに実っているかもしれません。しかし励まされるのは「夜昼寝起きしている間」に神がなさってくださいますから神に期待できるのです。「…主は恵みを与えようとして、あなたたちを待ち…主は憐れみを与えようとして立ち上がられる。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は」(イザヤ30:18)主イエスが人間の罪の救いの為に十字架にお架かりになり、復活された事によって神の国は保証されていますから私達は心から喜んで完成を待ち望み、主の祈りにおいて祈るのです。「…み国を来させたまえ、み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ・・・」