キリストにある平和

エフェソの信徒への手紙2章14~22節

 平和は人類にとって永遠の願いですが、人間が引き起こす戦争も、悲惨な出来事も人間の罪が姿を現したものです。ですから平和とは私達の罪が赦され、神と和解する事で実現されます。和解の福音、平和の福音こそ、主イエスが宣教し、聖書が証ししている福音の内容です。
 アダムとエバが神との約束を破った事によりこの世に「罪」が入ってきました。それ以来人は神を敵としてしまった罪人となったのです。しかし、罪人である私達の所に主イエスがおいでくださり、当然死ななければならない私達に代わって十字架に架かってくださり死んでくださいました。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し・・・十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。・・・キリストはおいでになり、・・・平和の福音を告げ知らせられました。」(14~18)このように「罪の問題は神の愛、キリストの恵みによって既に決着しました。
 しかし依然として、自己中心という罪の根に支配され、互いに愛する事、思いやる事、心を合わせる事ができない私達です。「あなたがたはいくらかでも、キリストの励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心、それらの賜物の一つでもあなたがたに宿っているなら、あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせて思いを一つにして・・・何事も利己心や虚栄心からするものではなく・・・めいめい自分のことだけでなく・・・」(フィリピ2:1~4)キリストの恵み、神の愛を思い知る時、私達は心を合わせ、思いを一つにし、真の平和を実現する事ができます。
 「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)平和を作る人になろうとするなら、先ず神と自分の間に平和を作っていく事です。キリストの恵みをこの身に受ける事から始まり、繰り返しその恵みに与り続け、感謝と共に祈り求めていく事です。平和は生きた信仰の実であるともいえます。
 「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編133)神の御思いを守っていく私達でありたいものです。平和を与えられた人達は、イエス・キリストを中心として心を一つにし、思いを一つにして、神の御前で大いなる祝福を受け、キリスト者の姿となっていきます。