キリストに倣って聖くなれる
テサロニケの信徒への手紙一 12章9~13節
主なる神の前に信仰告白して、洗礼を受けてキリスト者となります。そのような洗礼に始まる私達の信仰生活の成長をジョン・ウェスレーという人は「聖化」という言葉で表現しました。又、聖書において「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。あなたがたは聖なる者となれ、わたしは聖なる者だからである。」(ペテロⅠ1:15~16)と、「イエス・キリスト」に倣って聖なる者になるようにと記されています。
イエス・キリストを模範とする為に具体的に「マケドニア州やアカイヤ州にいるすべての信者の模範となるに至った」(1:7)とあるように、テサロニケ教会の信徒達から学びたいと思います。
伝道者パウロは、ローマやコリント等の教会でも主イエスの福音を同じように語りましたが、他の教会の人々とは違って、テサロニケの教会の人々が「すべての信者の模範」となったのです。彼らは何ら問題なく模範となったのではなく、むしろ「・・・ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしに倣う者、そして主に倣う者となり・・・」(1:6)と記されています。過酷な現実の中にあっても聖霊の助けによって、喜びをもって御言葉を受け入れて神によって生かされている事の喜びを知り、心から感謝したのです。彼らの力も能力も経験も、もはや用をなさない場面で神の御言葉に生きた彼らでした。人の命は人の言葉によって生きる事はできず、神と向き合い、神の言葉を聞く事によってのみ生きる事ができます。「・・・人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また信じているあなたがたの中に現に働らいているものです」(2:13)パウロという人間が語った言葉を、神の言葉として信じている人の中で、御言葉が生きて働きキリストに倣う者となります。創世記1章では、無から有を生み出す神の御言葉がこの世界を創造された事が記されていいます。同じように今なお変わらず、御言葉をもって私達に働いております。
神の御言葉は聖霊によって私達に語りかけ、成長させてくださいます。「大切なのは・・・成長させてくださる神です。」(コリントⅠ3:7)自分の力や能力のなさ、置かれた状況に嘆く必要はもはやなく、唯、神の御前に立たせて頂いている事に喜びをもって感謝しつつ「今日、この私に神は何を語りかけてくださるか?」御言葉に踏み止まり神の御言葉に聴き続ける事によって、イエス・キリストに倣う者として神が聖なる者としてくださいます。