神の忘れることのない愛

イザヤ書49章14~16節

 神に対して罪を犯し続け、預言者の警告に耳を傾けないイスラエルの民は、罪の代償を払う事になりました。敵国であるバビロンに捕えられ捕虜となり、信仰の拠り所であるエルサレムの神殿は破壊される、という大きな裁きを受けました。彼らの信仰は神に立ち帰る所か諦めとなり、益々神から離れ「どうせ、神に捨てられた、神に忘れられた」と諦めと無力感が漂っていました。
 そのような状況の中で神は「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、私があなたを忘れることは決してない。」(15節)と、神はご自身の愛を母親の愛に譬えて仰せられたのです。例え母子が分かれるような事情があったにしろ、母親が子を想う気持ちは変わらないように、神の愛は不変です。
 人間は罪を犯して自ら神から離れた挙句に「どうせ・・・」と、信仰を投げ出し嘆くものです。そのような弱い愚かな私達に対する神の愛は、忘れる事も変わる事も決してない事をイスラエルの民を通して示しております。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう・・・わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています・・・」(ロマ8:35~39)私達がどんなに不忠実であろうと、一度救われた人間に対して、変わらずに真実であり続けるのが神の愛で、その一点で私達の信仰はかろうじて保たれているのです。人間の救いは、人間側にあるのではなく、主イエスを十字架につけるまで私達を愛してくださった神の真実な不変の愛にかかっています。これ以外、私達が神の前に立ち続けられる方法はありません。
 更に「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。」(16節)城壁とは当時のイスラエルの無惨な姿で、それは私達が抱えている課題の現状であるといえます。これらを神は手のひらに忘れないように書くのではなく、「刻みつけて」くださっております。子どもが悩む時、病に侵された時、親は子供以上に悩み苦しみます。それと同じように、神も私達以上に自らの苦しみとして刻みつけてくださり、執り成しの祈りをしてくださっております。そこに私達の救いの依り所があります。神は「あなたの罪、弱さを良く見て反省せよ」とは仰せになりません。「キリストの愛の広さ、長さ、深さがどれほどであるかを理解し・・・それによって満たされるように。」(エフェソ3:18~19)と、祈ってくださっております。