新しい神殿
ヨハネによる福音書2章13~25節
詩24篇は問う「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。」
我々は答える。「我々のうちに聖なる神の御前に立てる者など一人もいない。」
【1】主イエスは神の宮を神の愛・聖なる怒りを以てきよめてくださる
ユダヤ人の過越祭(13)。神の民イスラエルは神との関係を保つため、全ての成人男子がエルサレム神殿の礼拝に与り犠牲を献げた。神は異邦人をも愛されて救いを望まれた。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる(イザ56:6-7)。 しかし神殿の異邦人の庭は、動物を売る者や両替人が暴利を貪り、祭司たちは私腹を肥やし、動物の鳴き声と悪臭、商売の声が飛び交い、異邦人はどこへ行って礼拝を献げればよいのか!神の聖き怒りは、あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽く(詩69:10)し、御子イエス・キリストの宮清めとして世に示された。詩65篇は神が罪を自覚した者の咎と背きを清め(贖い)、御前に立つ救いの喜びを与えるという大いなる約束を告げている。主は今も生きておられ、我々の祈りの妨げ全てを「このような物はここ(神の宮)から運び出せ」と命じて、聖なる神の怒りを以て完全に清めて下さる。
【2】三日で再建された神の宮は主イエスの体・教会・私達一人一人である
宮清めの権威「しるし」を示せと迫るユダヤ人たちに予告したとおり、主イエスは三日目に死人のうちより甦り、神の御子の権威を示された。主がご自身の体を「神殿」と言われたのは、肉体の甦りと共に、旧約の預言「新しい神殿」(エゼ36:24-32、37:23-28等)と同様に、神の民の霊的回復をも指している。今や霊と真を以て神を拝する唯一の場所は、エルサレム神殿でもヤコブの梯でもなく、全ての人の罪を贖われた十字架上の主イエスの体であり、御宝血によって清められ贖い出された新しい契約の民の集う教会こそキリストの体(コロ1:24)であり、我々キリスト者一人一人は神の住まう神の宮(Ⅱコリ6:16)である。
【最後に】神の宮なる私達一人一人が清められ、私達の集う教会が全く清められたとき、私達は神の栄光を現す (Ⅰコリ6:19-20) ことが出来るようになる。
さあ、今朝こそ、私達は主イエスを信じ求めて祈ろう。今朝こそ約束の聖霊のバプテスマ(使1:4-5)に与ろう。聖霊の炎によって、神の宮なる私達一人一人から、私達の集うキリストの体なる教会から、祈りの妨げとなる一切合切を残らず焼き尽くして頂こう。全く清められて主に喜ばれ、神の栄光を現す新しい神殿となろう。ハレルヤ!主に感謝