みんなが驚いた教え

マルコによる福音書1章21~28節

 「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(22節)主イエスが今迄誰も聞いた事がない、神の権威を持って会堂で教え始めた時の出来事です。神と敵対させ神の支配から遠ざける悪しき霊=汚れた霊に取りつかれた男が叫びました(23節)。主イエスはこの汚れた霊に「黙れ、この人から出て行け」と、お叱りになるとこの人から出て行きました(25~26節)。
 主イエスの御言葉は神の権限を示すと共に、悪しき霊に支配され苦しんでいる者を神の恵みの支配の元に入れさせてくださる力です。この世の権威は人を犠牲にして自分の強さを誇ります。しかしキリストの権威は、ご自身が十字架にお架かりなって犠牲になられ、罪人を神の恵みの支配に生かす力です。キリスト者とは、私の人生に徹的に関わってくださるキリストの権威の元に身を寄せ、キリストと共に生きる者です。
 汚れた霊は「・・我々を滅ぼしに来たのか・・」(26節)と、複数で表現され、様々な悪しき霊に支配されている事を表します。このような様々な悪しき霊に支配され、翻弄され神を見失っていく私達です。偉大な伝道者パウロも「自分のしていることが分かりません・・・いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。」(ロマ7:13~23)と、この世にあって見えない悪しき霊との戦いだと言います。(エフェソ6:10~18)。しかし、主イエスはこの時権威をもって「黙れ、この人から出て行け」と叫ばれ、汚れた霊から解放され神に立ち返った出来事を私達は初代教会の時代から今に至るまで、そしてこれからも語り続けられていきます。
 週毎に礼拝をお献げするのは、少しばかり道徳的に良い人間になろうとして神の前に立たせて頂いているのではなく、主イエスの権威あるお言葉を頂き、様々な悪しき霊から解放されてキリストの権威の元に身を置き続ける為です。神との正しい関係にある時、私の思いが生きるのではなく、神が私達を力強く生かしてくださり、様々な汚れた霊の支配から解放され、真に神に愛されている者として確信して歩む者となります。