キリストの内にいる者

フィリピの信徒への手紙3章8~11節

 パウロは「主にあって(口語訳)」という言葉を好んで用いた。新共同訳では「主によって」「主を信じている」「主に結ばれている」等々と訳されている。私たちも手紙やメールの結語に「在主」「主にありて」と用いる。しかしこの言葉はパウロがキリスト者の信仰の在り方を指し示す大変重要な語句である。パウロはダマスコ途上で復活のキリストと出会い、劇的回心を遂げた人物である。彼の価値観は大逆転し(3:7・8)、心はキリストに捕えられ(3:12)、キリストの内にいる者(9)となった。彼に限らず、人は誰でも神に出会い、或いは復活のキリストに出会うならば、価値感は逆転し、心は主に捕えられ、主の中にいる者となる。パウロと同様、詩139篇の作者も神に出会い、捕えられ(139:10)、神の中にいる(139:18)と告白している。
 ところがパウロは自分自身を「既に完全な者となっているわけ」ではないという。キリスト者の目標は「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得ること(14)」即ち「終わりの日に携挙されて永遠の生命を頂く」という「救いの完成」を自分の目で見ることであり、そのためには私たちが神から「キリストの内にいる者と認められること(3:8・9)」が絶対条件だと教える。パウロは「キリストの内にいる者」という状態を「主にあって」と表現し、私たちに徹底的にこれを勧めているのである。
 キリスト者がそして教会が「主によってしっかりと立ち続ける(4:1)」ならば私たちは終わりの日に救いの完成を見ることが出来る。また、「主において同じ思い(志)を抱いていれば(4:2)」エボディアやシンティケのように仲違いや分裂騒ぎは起こり得ない。更には、万が一、教会内に兄弟姉妹に仲違いが起きても、そのことに心痛める私たちが「主によってしっかりと立つ」即ち、キリストという信仰の岩、主イエスの地所の中に踏み留まり続けるならば、私たちは争い合う当事者たちを支え助け、〔正しい道へ〕引き戻す「(神の日にも明らかな)真実の協力者(4:3)」となれる!と主はパウロを通して私たちを励ましておられる。主に在って生きる者となりましょう。在主
キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。

フィリピの信徒への手紙3章8節b~9節a