最後まで耐え忍ぶ者は救われる

マタイによる福音書10章16~25節

 主イエスは色々な機会に、迫害にさらされる弟子達に対して心構えを教えられました。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(22節)夜明けは必ず訪れ、最後は神の祝福の御手の中にある、これが神の約束だと。
 「耐え忍ぶ」とは、「留まる」という言葉からきています。先が見えない中、一人で歯をくいしばって耐え忍ぶのではなく、信仰に留まる=イエス・キリストに留まり続ける事によって、既に用意されている栄光を頂く事を意味します。主イエスご自身が、十字架上で人間の罪の為に耐え忍んで勝利を得た苦難が土台となっています。お苦しみになられたその御足の跡を踏むことが信仰者の歩みで、そこに勝利は備えられています。(24~25節)。
 「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され・・イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」(Ⅰペトロ1:7) 試練の時に信仰が揺さぶられますが、そこを通って信仰が本物であるかが明らかにされます。苦しさの中に踏み留まる事で、負えない重荷を主イエスが負ってくださり、闘えない闘いを闘っていてくださる事をいよいよはっきりと知る者とさせて頂きます。うなだれ、失望の中にいる者から感謝する者へと変えて頂き、感謝する心が耐える力となっていきます。そして苦しみの中に大きな祝福が隠されている事に感動し、いよいよ本物の信仰と本物の希望を見出す事ができ、その時に人は変えられます。このように本物を見出すという事は一朝一夕という訳にはいきません。
 「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛に耐えるなら、それは御心に適うことなのです。」(Ⅰペトロ2:19) この闘いは神が与えておられ、逃げる事はできませんし、境遇が変わったからと言ってどうなる事でもありません。しかし、主イエスが「何をどう言おうかと心配してはならない。・・言うべきことは教えられる。」(20節)と、助けてくださり、「・・他の町に逃げていきなさい。」(23節) と、最終的な判断を示してくださいます。 今、置かれたこの場で主イエスの元に踏み留まって、「最後まで耐え忍ぶ」という、かけがえのない時間の中に身を置かせて頂いている私達は感謝です。