聖霊に満たされる

エフェソの信徒への手紙5章6~20節

 神の恵みは、キリストの救いに始まって、聖霊に満たされるという連続性があります。そのように大いなる恵みは大きく分けて二つあります。
1. まず、キリストと結ばれて罪あるものが暗闇から光の中へと新しく生まれ変わった時に与えられる罪の赦しの恵みです。「・・・暗闇の業に加わらないで・・・明るみに出しなさい」(11節)隠しておきたい暗闇の部分を神の御前に出した時、イエス・キリストに結ばれ罪赦されます。神の前に立たせて頂いた時に初めて罪が分かり、自分の問題が見え始め、神の光のもとで実を結んでいくように、人間は変えられていきます。罪との関係において信仰生活のスタート時点となります。暗闇から光の中へと、誰もがこの出発点が与えられています(6~14節)。
2. 更にもう一段進むと罪赦された喜びから、神のご臨在の力と実りが我が内に満たされる喜び、という積極的な面に導かれます。これを「聖霊に満たされる」とも言いますが、決して霊的高揚という心の状態ではなく、清められて神のご性質に与かれるような状態、キリストの似姿となる事を求め、神を賛美し崇める状態を現します。常に神と親しく交わり自分が生きるのではなく、キリストが我が内に生きるよう神に明け渡し求める事です。
「・・・わたしが来たのは、羊が命をうけるため、しかも豊かに受けるため」(ヨハネ10:10)罪から救われた、という初めの恵みに留まる事なく、聖霊によって喜びあふれる信仰生活を送り続ける事が、神の目的でもあり神の確実な約束です。ですから「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(18~19節)と、光の中で神を褒め称え、賛美と喜びの中を歩みなさいと仰せられます。キリスト教はあれもダメ、これもダメ、という縛られるものではなく、内なる喜びと賛美の宗教です。
しかし、クリスチャン生活を続けて行くうちに、自分は清められていない罪の性質が内側に残っている事に気づきがっかりしますが、それは神が与えるもので、私達が神の助けと満たしを求める為です。そして徐々にキリストを喜ばせる生活がしたい、と願うように変えられていきます。神を賛美し神の恵みで満たされ続ける豊かな信仰生活を送っていきたいものです。