キリストの復活
ヨハネによる福音書20章11~18節
2000年以上聖書が語り継げている最も大切な事は、イエス・キリストの十字架と復活の出来事です。人間の罪を赦す為に十字架にお架かりなりましたが死の闇から勝利を得、見事に復活されました。キリストの復活がなかったら信仰は無駄になる、と伝道者パウロも述べていますが、主イエスと寝食共にした弟子でさえ、復活の出来事を信じる事ができませんでした。かつて主イエスに救われ、どこまでも従い続けたいと願っていたマグダラのマリアは失望の中泣いており、復活された主イエスを誰も分かりませんでした。
「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」(15節)
「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません。」(13節)復活された永遠の命の源である主イエスを捜すのではなく、的外れに死んでしまった主イエスの亡骸を墓の中に捜しているマリアです。神は罪を犯したアダムに「どこにいるのか」(創世記3:9)と問われました。「あなたはどこにいるのか? 誰を捜しているのか?」と、復活の主イエスを求め続けているのか、と問われていのではないでしょうか。
私達の人生はいったいどこに根をおろし、誰を求めているでしょうか。人間の知識や能力、この世の常識でイエス・キリストの復活を理解する事は不可能な事です。復活された事実を信じるのみです。誰一人信じる事ができなくても、私達がどうれあれ、主イエスは既に復活され、共に歩いていてくださいます。私達が的外れであろうと、心が神に向けられずにうつむいていても、寄り添って歩いてくださっております。これが神の憐れみです。主イエスがどこかに行ってしまった訳でもなく、このつたない命と一緒に既に歩いておられる、これがイースターのメッセージです。マリアの訴えを遮らずに嘆きを聞きながら共に歩いてくださいました。
「マリア」(16節)と、名前を呼んでくださったように、私達にも呼び掛けております。旧約聖書に少年サムエルが神に呼ばれた記事が記されていますが、初めは分からず3度目に呼ばれた時に初めて気がつき「私はここにおります」と、応える事ができました。今も名前を呼ばれ共に歩いてくださっている復活の主イエスに「ここにおります」と応えるものでありたいです。