祝福にとどまる

コリントの信徒への手紙一 10章14~22節

澤田 武師

主題聖句 「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」 コリントの信徒への手紙一10章17節
 10章では、偶像礼拝は意味を持たない、価値のないものに陥らないように、という警告が書かれます。前半では出エジプトの時代に、偶像礼拝に陥った者たちがどのような滅びの道を辿ったかが証されます。コリントの教会にとっては、ずっと昔の遠い国の伝説のようなものでしょう。しかし、神に導かれて海を渡った救いの物語は、今、水を通って死から新しい命へと導かれる洗礼とつながっているのです。神様の救いの御業は変わりません。
 14節以降は、聖餐式につながるものと考えて良いでしょう。初代教会ははじめから主の晩餐を模して主の食卓につながることを重んじました。信仰により新しい命に生きるという恵みの中には、主の食卓に加わる恵みが含まれていました。十字架の前夜に、主イエス様が「これはわたしの体である、これは契約の血である」と弟子たちに分けられたパンと杯を、今に至るまで教会は繰り返し、主に在って一つになることを求めてきました。説教は「聴く御言葉」、聖餐は「体験する御言葉」と言い表されます。
 聖餐式の式文の中に「自分をよく確かめて聖餐にあずかりましょう」とあります。自分をよく確かめると、聖餐にあずかるにふさわしいのか?という問いがうまれますが、実はそういう思いこそが聖餐を聖餐にするのです。祝府にあずかるに値しないとへりくだる者が、祝福を受けるにふさわしい。ルカの福音書18章にある、ファリサイ派と徴税人の祈りのたとえ話では、顔も上げられずに「憐れんでください」と祈る徴税人が神に受け入れられました。「祝福」は「神の贖いの愛の賜物という恵み」です。偶像には最初から祝福はありません。真の神からしか来ないのです。この祝福に留まりながら悪霊を呼び込むことはあり得ません。永遠の命をわが内にいただいた畏れと喜びを心の真ん中に置いて、祝福から一歩も出ない決意をもって、世に遣わされて行きましょう。
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