10月10日礼拝説教概要
「忍び合い、赦し合う共同体」 コロサイの信徒への手紙3章12~17節
人を赦すことは実に難しい。今日、もし何年も前の罪を持ち出して相手を責めるなら、その人は今日までずっと相手を赦していないことになる。
●「忍び合いなさい」とは傾聴すること
忍ぶはヘブル語で怒るのを遅らせる、ギリシャ語では耐える、人の言うことを我慢して聞く、耳を傾ける(3:13)の意である。つまり「傾聴せよ」である。傾聴は「私の気持ちを聞いてくれた、分かってくれた」「信じて打ち明けてくれた」という思いを生み出し、相互関係は明らかに改善される。「忍び合いなさい」…傾聴には忍耐と共に、相手の人格を尊重する思い、自己犠牲の愛、アガペーがある。
●「責めるべきことがあっても」とは罪の忠告と悔い改め
主イエスは「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。 言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。(マタ18:15)」と教えた。忠告に復讐心はなく兄弟姉妹を取り戻したい一心、アガペーの愛のみである。ダビデはナタンの忠告を受けて「わたしは主に罪を犯した」と神に罪を告白し、悔い改めて赦された(Ⅱサム12:13、詩32)。愛ある忠告には、罪の告白・悔い改めを以て応えたい。
●「赦し合いなさい」とは何度でも赦し、二度と思い出さないこと
「神はご自身のために私たちの罪をぬぐい、私たちの罪を思い出さないことにする」(イザ43:25)、主イエスは兄弟が悔い改めれば何度でも赦せ(マタ18:22、ルカ17:3-4)と仰った。主は敵であった私たちを赦して下さった。主のアガペーの愛によって罪赦された罪人、主に在って赦された喜びを兄弟姉妹と分かち合う者でありたい。
●「愛を身に着けなさい」
天より注がれる御愛こそ、私たちを生きるキリストの体として一つとし、すべてを完成させる絆である。主の平安がありますように。アーメン