もはや死も涙もない
ヨハネの黙示録21章1~8節
主題聖句 「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。」 ヨハネの黙示録21章7節
6月第4週は特別な礼拝になります。1942年6月26日早朝、ホーリネス系教会の牧師が一斉に検挙され、その後、教会は解散を命じられました。この弾圧には、四重の福音の「再臨」が大きく関係しました。イエス・キリストが再び世に来た時、天皇はキリストより上か下か、と問われたのです。
再臨は誰にとっても経験のない最初で最後のことですが、聖書には再臨の全貌ではなくとも、一部分を幻として見せられた預言者が出てきます。パウロもコリントの信徒への手紙一の13章では『今は一部しか知らなくとも、そのときには・・・・はっきり知ることになる』と希望を持っています。わたしたちは、天国を死んだら行く所と考えているかもしれませんが、聖書によれば、天の国がわたしたちのところに来るのです。再臨の時には、創世記1:31「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」この故郷がわたしたちのところに来て、わたしたちはそこに帰って行くのです。
そこには「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」わたしたちは世にあってそういう世界を知りません。しかしこの御言葉は、死や嘆きの中にある時の力になります。今の世で確認できなくとも、神様の御業は世にも自然の中にもあふれていて、信仰者はそれらを見つけて、天の国を確信することができます。ただ、天の国がいつ来るのかは誰にもわかりません。ですから、「地上であなたを愛していなければ、天で誰がわたしを助けてくれようか。」(詩編73:25)今この時からの心備えが必要です。
新しい天と地を待ち望むただ一つの条件は、イエス様の十字架の贖いにわが身を明け渡すことです。わたしの罪は十字架の上で死に、わたしの命はイエス様と共に歩む復活の命に変えられました。今やわたしたちは、世にありながら神の玉座を仰ぎ見ることができます。聖書の最後の言葉「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」アーメン!
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