キリストが、すべてである

コロサイの信徒への手紙3章1~11節

澤田 武師

主題聖句 『キリストがすべてであり、すべてのもののうちに  おられるのです。』 コロサイの信徒への手紙3章11b節
 3章1節~2節に、パウロは「上にあるものを求めなさい。上にあるものを心に留めなさい。」、と記しています。それは神様を求め、神様に留まる信仰、真理の信仰者となるべき導きの言葉です。しかし、「キリストと共に復活させられた。」と告白している者たちの中には「地上のものに心を引かれる者たち」が残っています。これはコロサイの教会に限られたものではなく、どの時代どこの教会でも、信仰に生きる者誰にでも忍び込む問題です。そしてそれは、神様の愛がなければ、私たちの力だけでは、捨て去ることは不可能です。
 「貪欲は偶像礼拝にほかならない。」、「貪欲」とは度を越した所有欲だけではありません。自他関係なく全てのものを手に入れたと思う、そのためには手段を選ばない。偶像礼拝の怖さは、神様以外のものを神様としてしまうところにあります。それは自分自身までも、神様に代えてしまう「貪欲」です。新共同訳聖書で「捨て去る」と訳されている原語の直訳は、「殺しなさい」という意味です。パウロは貪欲を殺しなさいと命じているのです。
 「恥ずべき言葉を捨てなさい。」ヤコブの手紙には、「…、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」(1:21)とあります。信仰者の罪は、イエス様の十字架の死、罪の贖いと救いによって既に死んでいる。十字架の贖いと救いを通して私たちの言葉が整えられます。
 「主の祈り」は、祈る者の心を天に居られる神様へ、勝利者イエス様へと向かわせます。そして、地上で起こる全てのことは、神様の御心の中にあることを教えてくださいます。「主の祈り」の後半は、「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」と、私たちの日常の祈りであり、執り成しの祈り、罪から離れる祈りでもあります。「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。」余分なものを捨て去り「古い人」を脱ぎ捨て「新しい人」となれ、すべてが神様への祈りです。イエス様がすべての祈りを聞き届けてくださいます。
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