心に神殿を建てよ
ハガイ書1章7~11節
主題聖句 「山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。わたしはそれを喜び、栄光を受けると主は言われる。」 ハガイ書1章8節
ハガイが預言した時代は、天候不順による飢饉やいなごの被害が多発していたと考えられています。わたしたちは何事か起こるとすぐに「神様、なぜですか」と問いたくなります。神様が問うておられるのは、その自己中心的な物の見方です。「お前たちは自分の歩む道に心を留めよ」とは、全ての時代、全ての人間に投げかけられているものでしょう。
9節からは、人間の欲望の果てに生まれるものが並べられていきます。これは、神殿さえ建てればそのご利益で生活も良くなるから、何より先に神殿を建てなさい、という話ではありません。ここであらわにされているのは、民が「神様はこんなひどいことをなさる」と文句を言い立てる姿です。彼らは、自分たちは一生懸命働いているのに、神様は少しも報いてくださらない、それどころか、自分たちの生活が苦しくても神殿を建てよと無理なことを言われる、と嘆いているのです。神様の御旨に従うどころか、その御声に聞く気もなく、真意を問う気もなく、大声で自分たちの苦しさを述べ立てて「神様、ひどいではありませんか」と怒りをぶつけているのです。
神様は目に見える神殿を欲しておられるのでしょうか?旧約聖書を読む限り、そうではないように思えます。「わたしの神殿が廃墟のままであるのに」とは、心の内の、霊的な状態を指しているのです。新約聖書では、信仰者自身が神の神殿となる、という考え方が何度も出てきます。イエス様は十字架の死と復活を通して、わたしたちに神の神殿となる道を示してくださいました。その結果、わたしたちの内なる神殿にその名を置かれることになりました。「彼は戦利品としておびただしい人を受ける。」(イザヤ53:12)。神の初穂イエス様が、神の神殿は、どこにどのように建てるかを、身をもって教えてくださいました。そのキリストの名を戴いて、信仰者は「クリスチャン」と呼ばれます。礼拝が終わってからが始まりです。目に見える礼拝に養われ、目に見えない神殿の真ん中に主の御名を置いて、世に歩み出しましょう。
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