エマオの食卓で

ルカによる福音書24章28~35節

澤田 武師

主題聖句 『二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。』 ルカによる福音書24章35節
 エマオに向かう二人の弟子たちに、イエス様は近づかれ一緒に歩み始められます。二人が論じ合っていると「その話は何のことですか」と問われます。
 イエス様は癒しの奇跡を求めて来る人々に「何をして欲しいのか。」とあえて問いました。それは彼らが自分の願いを言葉として口に出し、神様の御力が奇跡を成し遂げるものであることを、はっきりと自覚させるためです。弟子のクレオパは、預言者と頼みイスラエルを解放してくださると信じていたイエス様が十字架にかけられて死んでしまった、と答えます。何も起こらない、何も変わることのない現実は、弟子たちが復活のイエス様を探すことを遮りました。それは弟子たちが求めていた「真実」ではなかったからです。
 さらに墓に納めたイエス様のご遺体が無くなっていた。「イエスは生きておられる」と天使たちは話しました。それがクレオパには「つまずき」の言葉となり、弟子たちはエルサレムから離れる決断をします。彼らの目指すエマオの村への道のり以上に、彼らの心はイエス様から離れてしまっていました。
 イエス様はエマオの食卓で二人の弟子にご自身を示されました。復活のイエス様が分かるということは、私も罪赦された者であると知ることです。
 「心が燃えた」十字架の真実を知った二人の弟子たちの証しです。弟子たちは、今帰ってきた道を再び、エルサエムの仲間のところへ引き返します。復活されたイエス様が現われてくださったことを、一刻も早く仲間に伝え、共に喜ぶ者となるために足を速めます。
 「つまずき」となった天使のお告げは、弟子たちの信仰をよみがえらせ、クレオパを再びイエス様を信じる者に変えました。
 イエス様のお姿は見えなくなりましたが、今度は弟子たちの言葉の中に、イエス様は現わされています。信仰生活で大切なことは、み言葉の分かち合いです。み言葉は、聞いた者の心に留まります。それが自分の言葉となったとき信仰を成長させます。私たちもイエスだと分かった次第を言葉にしましょう。
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