わたしはある

ヨハネによる福音書8章24~30節

 都築英夫師

主題聖句 『わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。』 ヨハネによる福音書8章29節
 この聖句は、イエスの宣言の言葉です。わたしを遣わされた方が「ある」。その方は主イエスと共に「ある」。主イエスをひとりしてはおかれないかたで「ある」。主イエスはその方の御心を行うことに徹することによって「ある」と言われます。
 24節以下で主イエスは印象的な言葉を語られています。「わたしはある」と。そのことを信じることがなければ「あなたがたは罪のうちに死ぬことになる」と厳しいことを言われるのです。それはファリサイ派の人々に向けてです。彼らは神の民の守るべき「律法」を真面目に、いわば四角四面に守ることに一生懸命でした。彼らは主イエスの言葉に不安だったのでしょう。「あなたは、いったい、どなたですか」と問いかけています。
 「わたしはある」とは不思議な言い方です。その元となる出エジプト記3章11~14節はモーセが主に呼び出される場面です。そこに主なる神がどのような方かと言われたときに「わたしはある。わたしはあるという者だ」と語られています。主イエスはこのモーセの出来事を心に覚えていたはずです。
 人が確かにあるためには主と共にあること以外にないのです。他の世のものは崩れます。では、確かなものとされる主により頼むために何が必要なのか。主イエスは御自分が「上げられる」、すなわち十字架の時を予告しています。その時こそ「わたしはある」ということが分かると言われるのです。
 聖歌397「とおきくにや」は関東大震災の時に創られました。その歌詞に「慰めもて汝がために、慰めもて我がために、揺れ動く地に立ちて、なお十字架は輝けり」とあります。そうです、揺さぶられる地に私達と共に主の十字架が立っている。主の招きがそこにあります。私達と共に主が「ある」ようにされるのです。共に主の十字架を仰ぐ歩みに出て行きましょう。
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