わたしの贈り物は

マタイによる福音書2章1~12節

澤田直子師

主題聖句 「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」 マタイ2:10
 数年ぶりに制限を設けないクリスマス礼拝、クリスマスイヴ礼拝を捧げ、保育園卒園児も多く出席してくれて、嬉しいクリスマスでした。世では一気にお正月ムードになりますが、教会暦のクリスマスは公現日(1月6日)、3人の博士がイエス様を訪れて宝物を捧げた日までとなっていて、この日にクリスマスを祝う国もあります。
 学者たちは東の方から来たというだけで地名はわかりませんが、旧約聖書中にはアブラハムの生まれ故郷ウルを「東の国」と呼ぶところもありますので、ユーフラテス川方面であろうと思います。ベツレヘムまでは何百キロという長い旅です。
 6節の預言はミカ書5:1からの引用で、祭司や律法学者なら、ヘロデの命令がなくとも知っていただろうと思います。しかし誰も動きませんでした。信仰を持つ意義を考える時、この行動の違いは重要です。
 学者たちが「喜びにあふれて」幼子イエス様に捧げた宝物は、神の独り子イエス様のご生涯と使命を象徴するものとなりました。
 黄金は王の中の王のしるしであり、神殿の中でも聖所で使われる祭具は、すべて金でおおわれました。イエス様が尊い方であることを表しています。乳香は樹脂を固めた物で、砕いて炭火に乗せ、香りをたてて神に捧げます。エジプトではファラオだけが使うことをゆるされる貴重品、ユダヤでは祭司が捧げる香でした。イエス様が神と人との仲介者であることを表します。
 没薬は純粋なオリーブ油に植物の樹脂を溶かし込み、高価な薬となった他に、高貴な人の葬りの際に体に塗るものでした。エジプトではミイラを作る際に欠かせないものでした。イエス様の死と復活を象徴します。
 わたしたちは、「礼拝を捧げる」「献金を捧げる」と言います。その言い方は正しいですが、さて、わたしたちの捧げるものはイエス様を表してきたでしょうか。自分を示すものを捧げることはなかったでしょうか。また、博士たちがそうであったように、「喜びにあふれて」捧げているでしょうか。
 一人一人が、主イエス様を表す捧げものを持ち来る者となりますように。
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