自分の義ではなく
フィリピの信徒への手紙3章1~11節
主題聖句 「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」 フィリピの信徒への手紙3章9節b
3章の始めに「同じことをもう一度書きますが」と前置きして、パウロはフィリピの手紙の主題でもある「喜びなさい」と語りかけます。信仰によって義とされたことを根拠とする喜びです。ここの主題は「信仰義認」しんこうによってのみ義とされる、ということです。
パウロや使徒たちはもちろん、イエス様もユダヤ教徒でした。そしてこの時代、福音はユダヤ教の分派のように受け取られていました。対してパウロや使徒たちは福音をユダヤ教の完成形であると考えて伝道したと思います。「信仰義認」は新奇な考えではなく、創世記15:6にすでに「アブラムは主を信じた。主はそれを神の義と認められた。」とあります。アブラムが割礼を受けるのはこのずっと後、99歳の時です。
ユダヤ教徒にとって律法を守ることは生命線です。生まれて8日目に男児が受ける割礼に始まって、食べる物も着る物も、一目見てわかるくらいに徹底して律法に従って生活しました。それがユダヤ人のアイデンティティだったのです。それをパウロは「あの犬ども」と貶めた書き方をします。「よこしまな働き手」とは神のためを装って実は自分のために働く人々、「切り傷にすぎない割礼」はどのみちいつかは朽ちて無くなる肉体のしるしを重んじる誤りを指しています。
福音はそうではないのです。洗礼を受けたからといって、目に見える何かが加わることも減ることもありません。神様と自分しか知らない、ということさえあり得る。しかし、福音はそここそを重要視するのです。パウロは与えられた神の義に比べれば、自分の人間としての権威は塵あくたのようなものと言います。神の義とは「対価を求めない愛と赦し」です。一方的に与えられた神の義を喜び、言葉と行いで表していきましょう。
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