その人たちのものである
マタイによる福音書5章3~10節
主題聖句 「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」 マタイによる福音書5章10節
「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と、イエス様は語られました。歴史の上で、クリスチャンに対する激しい「迫害」が行われた時代がありました。
10節で使われているギリシア語は現在形です。イエス様は公生涯の初期の山上の垂訓で、「わたしのために」と、イエス様を信じているということは、悪く言われることもある、それも「迫害」に含まれると言われます。あなた方も迫害に遭うのだと語られました。人の正しさではなく、神様の義に生きる姿は、世の人から見れば、とても受け入れがたいということがあり得ました。そこに世と信仰者との摩擦が起こり、ここから「迫害」「弾圧」は始まります。
ホーリネス系教会には昭和の宗教弾圧がありました。「迫害」は教会の歴史として、また、当時の信仰者の証しとして今も語り続けられています。
昭和の弾圧により逮捕されたY牧師は、取調中に担当者の目を盗んで、聖書を読むことが出来たこと、また、係官の気まぐれで留置場で讃美歌を歌うことになった、と書き記しています。先生を逮捕、投獄した者たちは、自分たちが神様の業に用いられたとは思いもしなかったでしょう。Y牧師は、神様との絆が決して切れてはなかった、この出来事は神様からの励ましの糧となった、と証しされています。Y牧師は、この先どうなるか分からない獄中においても、神様との豊かな交わりに感謝し神様の義に生き抜かれた「幸いな人」として歩まれました。「迫害」を通して、神様の約束が確かなものであることを確信し、証しした人々が居られます。
イエス様が山上の説教に込められた八つの「幸い」を、イエス様は信仰者、一人一人の内に見られていたのではないでしょうか。私たちの信仰は、弱さも不足も持っています。全てが満点であるとは思いません。それでもイエス様は信仰者を「幸いである」と言ってくださる。信仰に不十分な者と分かっていても、イエス様に応答してゆく。その人々をイエス様は「幸いな人」と呼んでくださいます。約束された天の国を受け継ぐ者として歩んでまいりましょう。
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