幸い—悲しむ人々

マタイによる福音書5章3~10節

澤田 武師

主題聖句 「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」 マタイによる福音書5章4節
 「悲しむ人々は、幸いである」とは、不思議なお言葉です。私たちは悲しみの中には、幸いはありえないと思っています。ふつう、誰もが幸いを望み、悲しみは避けたいと思うでしょう。「悲しみ」と「幸い」とは、正反対の意味を持っている言葉です。本来は「悲しみ」と「幸い」が結び付くことは無いのです。だからこそ、悲しみの中にある人々に、「あなたは幸いです」と言うことは誰にもできません。それは、私たちの日常の中では、あり得ないことだからです。
 それでも「悲しみ」の中に「幸い」を見るとしたら、それは人間的に順境の時には見えなかったものや、感じなかったものを知る、という「幸い」と言えるでしょうか。あるいは、他人の苦しみや悲しみに対して、同じ悲しみをもって、深い思いやりを持てる、という「幸い」なら、あり得るかもしれません。
 しかし人間の感情は、何時かは忘れ去られてしまうものです。「悲しむ人々は、幸いである」とは、イエス様お一人だけが語ることできる真理なのです。イエス様のお言葉だからこそ、私たちは耳を傾けることができるのです。
 聖書では、ラザロの死にあって、マルタもマリアも「ここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と、イエス様に訴えます。愛する者の死は深い悲しみとして、彼女たちの目を涙で覆います。
 「悲しみを封印して生きる」これが人間にできる限界です。愛する者を失った悲しみは、決して消えることはありません。そして彼女たちは、悲しみが少しずつでも力を失うことを願っています。そのマルタとマリアの前でイエス様も涙を流されました。共に悲しみの中に居ることから、御業を始められました。そして「ラザロ、出て来なさい。」と、悲しみの根本を取り除くために、奇跡を起こされます。他の誰にでもできない、確かな慰めが彼女らに与えられました。
 悲しみは、その重さを選ぶことはできないのです。誰でも悲しむ者になるのです。だから私たちは、悲しみを、涙をそのままに、共に居てくださるイエス様のもとへと参りましょう。悲しみの中に光る十字架は、私たちに確かな慰めとして与えられています。
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