祝福に招かれる

マルコによる福音書10章13~16節

澤田 武師

主題聖句 『命ある限り、わたしは主に向かって歌い 長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。』 詩編104編33節
 10章には3種類の人々が出てきます。ファリサイ派の人々はイエス様を試すために、そして金持ちの男は、永遠の命の存在をイエス様に問うために、イエス様に近づきます。イエス様は彼らの訪問を拒まず、祝福へ迎え入れようとされますが、彼らはイエス様のお招きを断って帰って行きました。
 もう一組、有名なラビであるイエス様から、祝福を祈っていただくために、子どもたちを連れてきた人々がいました。しかし弟子たちは、彼らを叱り、イエス様に近づくことを阻みます。ユダヤでは、子どもは“律法に関しては無知であり、それゆえ、律法に照らして神の前に功績を持ち得ない者”と考え、祝福を受けることから除外された者と見られていました。そこに加えて、忙しいイエス様を煩わせたくないという、弟子の心配りがあったかもしれません。
 マルコは、その時イエス様が“憤られた”と記しています。子どもを思う親の気持ち、祝福を願う親の気持ちをイエス様は十分に察しておられました。それゆえに、イエス様に近づくことを拒んだ弟子たちの行いに対して、激しい怒りを覚えられたのです。
 それが、弟子たちが思うイエス様への労りの心からの行動であっても、祝福に近づくことを妨げる理由にはならないことを、イエス様は示されました。
 そして、イエス様は、“神の国”は“子どものような者たちのものである”とも言われます。ただ神様の愛にすがる者、自らの努力に期待するほどのものはなく、神様の愛により頼むほか生きてゆく術を持たない、幼い無力な者たち。そのような者たちこそが神の国に招かれている、と示されます。
 イエス様は子どもたちを、招き入れ、抱き上げ、手を置いて、祝福を祈られました。その時、子どもたちへの祝福は、連れて来た大人たちに対しても祝福となったでしょう。イエス様はすべての者を祝福に招いてくださっています。私たちもイエス様の祝福によって、神の国へと招かれている者です。
📢音声