見るに忍びません
創世記44章30~34節
主題聖句 「この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」 創世記44章34節
ユダはヨセフに向って、父を説得してべニヤミンを連れて来たいきさつを話します。もしべニヤミンが帰らなければ、父は今度こそ悲嘆のあまり死んでしまうだろうと訴えます。若いころのユダは、他の兄弟と同じようにヨセフを憎みました。しかし今のユダにはヤコブを思いやる心が与えられています。
ユダが申し出たのは、自分が身代わりに奴隷となるから、べニヤミンは父のもとに帰らせてほしいということでした。その理由として「父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」と言います。
旧約聖書は、福音を指し示しています。アブラハムが一人息子を神に捧げようとする場面は、後に神の独り子がわたしたちに与えられることを暗示します。出エジプト記の過越しの夜の場面は、神の子羊の血のしるしによって、裁きが過ぎ越していく、十字架の贖いを予告するものです。
ここでも、ユダの言葉は、遠い将来にイエス様が表してくださる愛の深さを啓示するものとなっています。ユダは父の苦しみを見るに忍びない、だから自分が身代わりとなる、と言ったのです。これは、イエス様がわたしたちを見て言ってくださったお言葉ではないでしょうか。わたしたちは、善を行いたいと望みながら、自我に囚われて罪を犯す者です。
パウロは「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」「わたしは何と惨めな人間なのでしょう」と嘆いています。その惨めな状態を「見るに忍びない」と代わってくださったのが、十字架のイエス様のお姿です。ユダが「父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません」と言った時、ヨセフはもう平静を装うことができなくなりました。ユダの言葉の中に、神様の愛を感じ取り、それがヨセフの愛をも呼び覚ましていったのです。神様が人間を造られた時に吹き込んだ命の息は、時が進んでも人の中に確かに生きていて、お互いの愛を呼び起こします。わたしたち信仰者は、礼拝の中でイエス様に会い、イエス様の愛に、内なる命を呼び覚まされて、世に遣わされて行くのです。
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