人の知恵は浅い
創世記37章25~36節
主題聖句 「ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ。」 創世記37章34節
ヤコブの長男ルベンは、何とかヨセフを父の元に返そうと考えます。食事をしながら彼らが見たイシュマエル人のキャラバンは、エジプトに薬として重用された没薬などを運ぶ人々でした。そこで四男のユダは、ヨセフの命は救うとしても、エジプトに奴隷として売ったらどうかと提案します。
しかし彼らが話し合っている間に、ミディアン人がヨセフを穴から引き上げ、イシュマエル人に売ってしまいました。わたしたちは、聖書を読んで、ここに神様のご計画が働いていることを知っています。エジプトに連れ去られたヨセフと、家族との関係は一度はここで切れますが、ずっと先で再び一緒になることを知っています。それどころか、彼ら族長物語は出エジプト記につながり、そこで過ぎ越しの夜に、神の子羊の犠牲があり、イエス・キリストの十字架の贖いの啓示が現わされることまで知っています。
しかし聖書は「知っている」で終わってはいけない書物です。わたしたちは、ここから神様が教えようとされるのは何かを見出さなければなりません。ヨセフがいないことを知って、兄弟たちは途方に暮れ、ヨセフの上着を山羊の血にひたして、父に送りつけます。すると父ヤコブは、ヨセフが死んだものと信じ込んで、ただただ、嘆き悲しむのです。
ここを読むといつも思うことがあります。誰か、どこかの時点で「祈ろう」と思わなかったのだろうか。ヨセフの夢の話を心にとめたヤコブ、かつて神と戦って祝福を勝ち取ったヤコブは、この時、神の御業をどのようにとらえていたのだろうか。どうして、目の前にある問題を人間の知恵でどうにかしなければ、と考えたのでしょうか。
聖書は他人事で読むものではありませんが、他人のことははっきりと見えるものです。では、わたしは?と考えます。祈るより先に、自分の思い、感情が先走ってしまわないだろうか。わたしは、人の知恵の浅いことをよくよくわかっているだろうか。イエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい」と教えられました。何よりも先に主の御言葉を求め、聞く耳を持ちたいと願います。
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