神様の業が現れる

ヨハネによる福音書9章1~12節

澤田直子師

主題聖句 『イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』 ヨハネによる福音書9章3節
 四重の福音の三つ目、「神癒」です。武牧師は、「新生」は喜び、「聖化」は感謝である、と御言葉を取り次ぎました。続く「神癒」は何でしょうか。わたしはチャレンジであると思います。
 当時のユダヤ人社会では、目の不自由な人は社会の一員にはなれませんでした。この人にできることは、人通りの多いところに立ち、人の同情を当てにして施しを乞い、その日を生きることでした。イエス様は、彼の生まれながらに塞がれていた目を、泥でさらに塞ぎます。シロアムの池に行って泥を洗い落とす、というチャレンジを課したのです。もし、これを「できません」と言うのであれば、彼はまた人の同情にすがる日々に戻らなければなりませんでした。
 この人は、イエス様のお言葉通りに、シロアムの池に行きました。それほど遠くではありませんが、目の見えない彼にとっては大変なことだったでしょう。しかし、泥を洗い落として光を得た後では、周囲の人が本人かどうかわからなくなるほど、この人は変わります。表情も歩き方も別人のようになっていたのでしょう。神様の御業に触れ、そのチャレンジに応えたことが、この人を大きく変えました。
 「神癒」と聞く時、わたしたちは、医学に頼らずに病気が治る様子を思い浮かべるでしょう。もちろんそういう奇跡は起こります。しかし治らないという答えもあり得ます。あのパウロでさえ、三度も癒しを祈って聞かれなかったことを記しています。それでは、わたしたちが愛する人の癒しを祈り願うのは無駄な事でしょうか。決してそんなことはありません。祈った以上は、神様の答えが与えられるでしょう。それは新しいことの始まりです。癒されるか否かの先に、神様のチャレンジに応え、大きく変えられる時が備えられているのです。勇気をもって主の導きを求め、応答し、「わたしがそうなのです」と証しする者となりましょう。
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