自分は救えない

マタイによる福音書27章32~44節

澤田直子師

主題聖句 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」 マタイによる福音書27章42節
 イエス様は、十字架の横木を担いでゴルゴタへの道を歩まれます。キレネ人のシモンという人が出てきます。キレネは北アフリカの地中海に面した町で、ユダヤ人が多く住んでいました。シモンは、一生に一度はエルサレムで過越しを祝いたいとやって来たのでしょう。そこで十字架を担がされるのは全く運の悪いことだと、この時は思ったでしょう。しかし聖書には、後にシモンがクリスチャンとなって初代教会の働き人として用いられたことが記されています。神様のご計画は人の思いをはるかに超えます。
 地元の篤志家の婦人たちが、十字架につけられる死刑囚の恐怖や苦痛を和らげるためにぶどう酒を差し入れました。また当時の布は貴重品だったので、死刑を執行する人たちが、特権としてもらうことになっていました。当時の十字架刑の習慣にのっとって、死への歩みが進みます。
 祭司や群衆はイエス様を嘲ります。「自分を救ってみろ、十字架から降りてこい、そうしたら信じてやろう」イエス様は、その気になれば自分を救う力はあったけれども、それをしなかったのか、それとも自分を救うことはできなかったのでしょうか。神の独り子、救い主であっても、人間である以上、自分は救えないのではないかと思います。
 「救う」という漢字はとても良くできています。左側は「求める」右側は変形していますが「父」です。父を求めることは、救われることにつながります。
 イエス様は弟子たちに、ご自分の言葉も行いも、全ては天の父の御心の通りであると教えられました。そして、イエス様を信じなくても、父なる神の御業を信じなさい、と言われました。イエス様がご自分を救えなかったゆえに、父なる神はイエス様を復活させました。わたしたちも自分を救えない弱さを受け入れ、天の父を求めましょう。
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