イエスの命が現れる
コリントの信徒への手紙二4章7~14節
主題聖句 『主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。』 コリントの信徒への手紙二4章14節
「聖徒の日」には特に思います。イエス・キリストを信じ、そして天に帰った聖徒の誰お一人として、同じ信仰生活を歩まれた方はおられない。年齢、性別、受洗の時期、導かれ方、神様はお一人お一人と出会ってくださり、お一人お一人にオーダーメイドの信仰を備えてくださっています。
パウロは、「土の器」を信仰者の生き方の譬えとして用います。「土の器」その中には、陶芸家が丹精込めて創りあげる高価な芸術作品としての「器」もあります。しかし、ほとんどの「器」は日常生活で使うために、おのずと形も大きさも決まってきます。「器」の価値は用いられ方で決まります。
神様は、特別ではない「土の器」である私たちに「宝」を納めてくださいました。パウロは、あなたが神様によって生かされていると分かった時、そこに神様の並外れて偉大な力が発揮され、「イエス・キリストの命が現れる」。私たちが神様の栄光を知るために、私たちを用いてくださると言います。
パウロは、すでにイエス様の御力をいただいています。だから行き詰まらない、失望しない、見捨てられない、滅ぼされない。並外れて偉大な力が与えられ、伝道者として歩み続けられる力となった。パウロは神様の栄光が自分に与えられていることを、生き方によって表しています。
「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」(コヘレトの言葉3:11)神様は最もふさわしい時に、私たちをイエス様と出会わせてくださいます。それは「永遠を思う心」を納めた、器としての歩みが始まることです。宝を納める器としての歩みです。
信仰者の生活は、イエス様の十字架と共にあります。信仰者にとっては、苦しみや死そのものが何か価値を持っているわけではありません。それがイエス様のためである時にのみ、そこに意味を見出します。「土の器」として生かされているからこそ知ることのできる真理です。
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