娘よ起きなさい

マタイによる福音書9章18~25節

澤田 武師

主題聖句 「群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。」 マタイによる福音書9章25節
 「四重の福音」の「神癒」は神様が私たちを創られた時から、既に私たちの体にも恵みとして与えられています。神様の癒しは、被造物である私たちの体の免疫機能や回復力となって働き、ケガや病から回復させ、その痛み苦しみから私たちを守ってくださっています。
 しかしそれは、傷や病が癒されることだけの、限られた恵みということではありません。私たちは、神様との交わりを通して生きる者として創られ、一人一人の生活が与えられています。実は「神癒」は、私たちの日常に起こる全ての出来事を通しても現わされているのです。弱き者が、困難に立ち向かっていく時、神様は私たちに、助けを与え解決の手段を示してくださいます。
 指導者も病の女も、是非イエス様に会わなければならない重大な理由がありました。「ある指導者」は、自分の娘の死という痛ましい現実に直面しています。彼はイエス様の前にひれ伏し、「娘に手を置いてやってください。生き返るでしょう。」と、願います。もう一人の「十二年間も患って出血が続いている女性」は、全財産を治療に使い果たしても、医者からは見放され、失意の中にありました。しかし、彼女は「イエス様の服に触れさえすれば癒される。」そう信じて、誰だかわからないように、後ろからイエス様に近づきます。
 彼らが求めている答えは、人間の業では成し遂げられません。彼らはイエス様を最後の望みと頼り信じ、癒しを求めてここにいます。信仰者の姿です。
 被造物に命を吹き込み、取り去られるのは神様の御業と信じ、悲痛な願いを持って近づいて来た者たちの心を、イエス様はご存じです。彼らの痛みに、イエス様は癒しの御手をもって触れられます。
 私たちは弱さを持っています。弱さに挫けそうな時もあります。その私たちをイエス様は御手によって、昨日も今日も、明日も起こしてくださいます。それぞれの一日を歩ませてくださいます。それこそは、神に愛されて「神癒」の恵みの中にあるということです。
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