世に遣わされた者として

ヨハネによる福音書17章13~19節

澤田 武師

主題聖句「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。」 ヨハネによる福音書17章18節
 イエス様の祈り。「しかし、今、わたしはみもとに参ります。」差し迫った十字架を前にしても、イエス様には「わたしの喜び」があり、同じ喜びが「彼らの内に満ちあふれるように」と神様に祈られます。イエス様の祈りは、今だけに限られたものではありません。祈りは、これから後も、弟子たちへの励ましとなり続けます。
 イエス様は、弟子たちも「この世に属していない者、憎まれる者」であると言われます。使徒として遣わされた先々で、迫害に会うと断言されます。
 「イエス様の喜びに満たされる」とは、地上の権威や富を主とはしないということです。世界を創造された神様、そして私たちを罪から救うために遣わされたイエス様を、唯一の主と信じることです。
 弟子たちは何の力も権威も持ちません。世は、この弟子たちを亡き者にしようとします。しかし、イエス様は、永遠の命を知り、イエス様との交わりを信じ、聖霊に満たされて使徒と変えられた弟子たちを、この世にお遣わしになりました。「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。」「ささげる」という言葉は「聖める」という意味もあります。イエス様は自らの命を十字架につけ、イエス様を信じ弟子たちが「聖く」なるようにと祈られました。
 イエス様の祈りを、私たちへの祈りと聞きましょう。私たちがこの世にある限り、イエス様との交流に終わりはありません。それが信仰の喜びです。しかし、御言葉を信じて生きてゆく時、確信をもって熱心に信じて行くほど、この世からは離れます。この世との隔たりを感じます。信仰によって、この世で苦難や困難を経験することもあります。
 「わたしも彼らを世に遣わしました。」私たちもまた、この世に、それぞれの生活の現場に、遣わされているのです。私たちが信仰者として生かされていること、礼拝をお捧げできることの背後にも、イエス様の祈りと神様の守りがあります。私たちはこの恵みを、片時も忘れてはならないのです。それは信仰生活のすべてをかけて知っていくことなのです。
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