神の名は響く

ヨハネによる福音書8章1~11節

澤田 武師

主題聖句 「すると、イエスは言われた。『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」
  ヨハネによる福音書18章8節

 イエス様は、御自身を捕らえに来た者たちの前に、自ら進み出られて「だれを捜しているのか」と問いかけます。祭司長やファリサイ派の人々は「ナザレのイエス」と答えます。「イエス」当時は普通に使われていた名前です。彼らはこの名前の人物を捕らえるために、普段は敵対するローマ軍の力に頼ってまでも、十分な備えをもってイエス様に迫ります。
 イエス様は、ご自身を彼らの前に現されました。「ご自分の身に起こることを何もかも知っておられ、」イエス様だけが、十字架への道の意味を知っておられました。わたしこそ十字架に架かる者であると宣言されるかのように、「わたしである」と、名乗られました。
 イエス様の名前、それを聞いた彼らは「後ずさりして、地に倒れた。」この奇跡を体験してもなお、この名前こそが、神様の独り子の名前であるということは、理解出来ませんでした。
 全く無力な弟子たちにも、突然とてつもない試練が襲い掛かろうとしています。イエス様は全ての者をご自身に注目させるために、話されます。
 「この人々」、何もすることができない弱い弟子たちを「去らせなさい」と、命じます。共に歩んで来た弟子たちの安全を、逃れさせることをイエス様は忘れてはおられませんでした。
 パウロは「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださる」とコリントの信徒への手紙に記しています。試練の時にこそ、神様の御旨を知るチャンスがあります。主のご計画の中で、逃れの道はいつも私たちに備えられています。それを知るために試練があるのかもしれません。
 私たちには、神様に向かって、イエス様のお名前によって祈る特権が与えられています。私たちのために十字架に架かってくださった、イエス様の名前を呼ぶことを、私たちは第一にしたいと思います。その名前をこの世に響かせることが、神様からわたしたちに与えられた使命ではないでしょうか。
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