これから始まる
ヨハネによる福音書9章1~3節
主題聖句 『そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。』
ヨハネによる福音書10章38b節
『「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』ヨハネによる福音書9章2~3節
弟子たちの関心は目の不自由な人に対して、出来事の原因を過去に遡ることで、主イエスにその理由と説明を迫りました。しかし主イエスはそのことには一切触れず、「神の御業が現れるためである」と、一言だけ仰せになりました。
主イエスの眼差しは、生まれつき目がみえないという現実に立ち止まらず、未来に開けている道筋・神がそこから御業を行ってくださる始まりをご覧になっていたのです。そして現代に生きる私たちにも、その御業を具体的にみることができるように、既にその道備えをしてくださっています。
本当に目が見えなかったのは、弟子たちやその廻りの人々であったと言えます。そして私たちも同じです。目の前の困難やこの世のことに心捉われて信仰の目が閉ざされ、盲目になることが多々あります。私たちは真実に見るべきものを見ているでしょうか。見るべきものを見ていないのではないかと、主が問うておられる気がいたします。
私たちにとっての不幸とは、人生に様々の苦しみや病や多くの問題を抱えていることではありません。この世でマイナスと思えるような出来事に盲目になり、神なき世界の暗闇の中に生きることです。私たちは弱い者ですから、困難なことに直面すると、後ろを振り返って原因探しをしたり、「・・・だったら」と、これまでの歩みを後悔したりします。しかしそのような時にこそ主イエスが見ておられる神の世界に焦点を合わせる必要があります。
そのような歩みを通して、神様のご計画を知ることができ、キリストの愛の確かさ・恵みの力強さ・憐れみの深さを味わいながら信仰生活を歩ませて頂けるようになります。更にこの世に「希望の神」を指し示し、お証しできるように成長させてくださるのです。
私たちの人生は様々な課題、苦しみ、時には病が与えられます。しかし、そこから始まる「神の御業」を見ることを可能にしてくださる主の力に希望を抱くことができることに感謝いたします。
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