神の栄光のためである

ヨハネによる福音書11章1~16節

澤田 武師

主題聖句 『わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。』
         ヨハネによる福音書11章11b節

 11章には「無名のキリスト者の死と復活の奇跡」が記されています。イエス様が友ラザロを生き返らせた奇跡は、イエス様が私たちの罪の贖いとしての十字架へと向かわれる、確かな第一歩であったということです。
 「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエス様のお言葉は不思議です。愛するラザロのもとへ急ぐこともなく、また、マルタ、マリア姉妹への慰めのお言葉もありません。イエス様の御心を知ろうとする時に、戸惑いを覚えることがあります。私たちにも、苦難を選ばなければならない、担いきれない困難を神様は備えられたと、思う時があります。しかし神様の御心に不安を覚える時こそが、私たちの信仰が成長し、忍耐力が強められる時です。イエス様が私たちに求めておられる「時」なのです。
 二日の後「わたしは彼を起こしに行く」と、神様の栄光を現すためにイエス様は弟子たちとラザロの元に向かいます。病の知らせを聞いてから二日間待たれたこと、そして、今になって出かけようとされるイエス様の思いは、私たちには理解できません。強いて言えば「神様の時」であると言えます。
 被造物全ての最後は「死」です。決して免れない時です。イエス様の思いはラザロの死が完全になった時、誰もがラザロの死を受け止めた時、「死では終わらない」神様が介入される事実があることを示めされるために、イエス様が選ばれた最善の時であったと思われます。
 突然のラザロの死は、マルタ、マリア、彼らと共に生きる人々には、深い悲しみや嘆きを与えました。しかし、イエス様はこの死の悲しみ、嘆きを超えたところに、復活があることを知らされます。弟子たちに、絶望を感じる者たちに、この事実を見届けさせるために出かけます。
 私たちも、神様の試練の意味を知りたいと思います。祈りがかなえられない、苦難からの救いが遅いと嘆く時にこそ、深い神様の御心「神様の栄光」が現わされるためであることを覚えたいと思います。
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