神の業が現れる

ヨハネによる福音書9章1~12節

澤田直子師

主題聖句 「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。」
        ヨハネによる福音書9章11節B

 イエス様は、毎日道端に座わって行き交う人々に施しを求めている“生まれつき目の見えない人”に視線を注がれました。弟子の一人は、イエス様の視線の先にあるものに気付き「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」と、問います。この世は“この人”の存在を罪の結果として見ています。その原因を捜します。
 “この人”の体に障害があるのは、誰かが罪を犯したからである、因果応報的な弟子の問には、目の前にいる“この人”の心の苦しみは見えません、悲しみも分かりません。弟子の視線も“この人”の過去に罪を捜します。
 イエス様は弟子の問いに、「神の業が“この人”に現れるためである」、と応答されました。イエス様は“この人”を指名します。神様が御業を現す者として、今からは人々の中で生き続ける者となると言われます。
 創世記の天地創造の時、神様は人間だけを、土の塵で形づくり、命の息を吹き込んで創られたと記しています。イエス様は彼の目に、土をこねて塗って、そして、シロアムに行って洗いなさいと命じられます。光りを感じない目に光を創造され、信仰の光を見ることのできる目として開かれたのです。
 誰でも、霊的な目を開かれるためには、キリストの十字架から流れ出る清めの水によって、洗われなければなりません。キリストの贖いの死によって、信じる者の目が開かれます。
 この世は彼に起こった事実を受け入れません。人々の目には、信仰の事実が見えませんでした。この出来事を疑う人々は、どうして目が開いたのかを彼に問います。彼は自分に起こった事実について、全てのことはイエスという方が行ったとしか、応答する言葉はありません。彼は事実の証人となったのです。
 私たちの目もすぐに曇ります。私たちも霊的な目を開かせてくださいと祈り続けて行きましょう。霊的な目を塞いでしまう、罪や自我を取り去ってください、もっと神様が見えるように、もっと神様の御業がよく分かるように、この目を開いてくださいと祈り続けて行きましょう。
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