わたしもその人の内にいる

ヨハネによる福音書6章52~59節

澤田 武師

主題聖句 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」
                                                           ヨハネによる福音書6章56節

 私たちが「食べる」、「飲む」とは、神様が創造され備えてくださった「命」を食べることです。この「命」以外には私たちの食べ物はないのです。また、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」とあるように、その命をいただくことは、空腹を満たすだけではなく、私たちが「神様のみ言葉によって生かされる」ことなのです。
 私たちは「命」を維持するのに必要な栄養を体内で作り出すことが出来ません。必要な栄養は外から、つまり「食べる」「飲む」ことでしか得られません。
 「命のパン」は、唯一神様が創造されたものではありません。神様がこの世界を創造される前からイエス様はおられたからです。そのイエス様が自らの命を奉げてくださるために、「命のパン」として私たちの前に現われてくださいました。
 コリントの信徒への手紙一では「聖餐」について、イエス様は過越しの食事「最後の晩餐」の時に、弟子たちに示された「パンは裂かれたわたしの体である」、そして「ぶどう酒」は、流されるわたしの血潮であると書かれています。「記念」であり「新しい契約である」と記しています。
 56節「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。イエス様との人格的な交わりを持つこと、イエス様を受け入れること、それこそ「食べる」ように「飲む」ように、イエス様が私の中へ入って留まってくださる。イエス様との確かな関係を作ることが「聖餐」であると記しています。イエス様を「食べる」とは、イエス様と「永遠の関係を持つ」ことです。「命のパン」を食べる、その本質は「永遠の命を食べる」。それが聖餐であるとヨハネは記します。
 十字架で割かれたお体と、流された血潮は、信じる者に新しい命として与えられます。「聖餐」はイエス様と関係、すなわちイエス様と一体になること。ヨハネはそのためにイエス様が遣わされて来られたことを強調しています。イエス様はどこにおられるのか。あなたの心の中にイエス様はおられます。あなたの命を共に生きておられます。それを五感で確認するためにキリスト者は聖餐を受けます。目の前のパンに、ブドウ液に、イエス様のお姿を見るのです。
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