感謝の祈りを唱えてから
ヨハネによる福音書6章1~15節
主題聖句 「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人に分け与えられた。」11節a
目の前に在るのは、空腹の5,000人以上の人々とイエス様の問いに答えを持たない弟子たち。それでも、自分一人分の食糧を献げようとした少年。私たちの常識から見れば、到底何も解決しない、皆が途方に暮れている光景です。しかしそこにはすべての結末を知っておられる方がいます。イエス様は少年の持っていたパンを取って、「感謝の祈りを唱えてから」人々に分け始められました。
「感謝の祈り」とは、共観福音書での最後の晩餐の時、イエス様の祈りに使われた言葉と同じです。それは、家族で食事をするように、お腹を空かした多くの者を食事に招いた家の主人として、目の前にいる者全てを「満たす」ための祈りです。
イエス様なら、石をパンに変える奇跡も、天からもう一度マナを降らす奇跡もおできになります。しかし、今イエス様が手に持っておられるのは、少年が差し出した小さな献げものです。一人の少年が持っていたイエス様への信頼をイエス様は喜ばれ、皆が理解できる、形のある豊かな祝福へと増やされました。
「どこでパンを買えばいいだろうか」少年は自分の献げものがイエス様の問いの答えになるとは思っていなかったでしょう。それでも献げました。何かの役に立つかもしれないとの思いが、途方に暮れている者たちを豊かな食卓へと招きました。
イエス様の祈りは「弟子たち」への祈りでもありました。皆が満腹した後に、イエス様は弟子たちに残り物を「集める」よう言われました。集めるために使われたのは、当時ユダヤ人なら誰でも身に着けていた荷物を入れるための小さな籠です。イエス様は、一人一人の籠の中にも祝福を満たされました。弟子たちにも祝福が与えられ、喜びで満たされたのです。自分たちのための奇跡でもあったと知らされた出来事です。
イエス様はこの奇跡の中に、全ての者の罪を贖う献げ物としてのご自分のお姿を、見ておられたのではないでしょうか。人々の罪を贖うために、自らのお体を裂いて、分けてくださったイエス様。私たちはこの方から、生きる糧をいただきます。
私の籠は、既にイエス様の祝福で満たされています。感謝いたしましょう。それは、感謝の祈りから始まりました。私たちも祈り求めて歩き始めましょう。
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