なすべき礼拝
ローマの信徒への手紙12章1~8節
主題聖句 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる
聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」 1節
聖書は、神様は「聖なる方」であると記しています。「聖」とは、私たちとは全く異なる方、区別された方である、神様の絶対性、超越性を表す言葉です。その神様は私たちにも「聖なる者」となることを求めておられます。
私たちは教団信仰告白の中で「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたもう。この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の実を結ばしめ、その御業を成就したもう。」と告白します。この告白は「義認」「新生」から「聖化」へと進む信仰者の姿を現しています。
ホーリネス信仰はその名前が示すように、「聖化」を特に重んじる信仰です。実践的であり、個人個人の生活の場において、神様の「聖」を求める信仰と言えます。「聖化」は、「主と同じ姿に造り変えられて行く」とうことです。
パウロは「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」と、「自分の体」を聖なる生けるいけにえとして、自分の肉体だけではなく、あるがままの自分を献げることを求めます。
「なすべき礼拝」とは、「ただ一度、この世から区別されたものが、喜びをもって、痛みを知って捧げる礼拝」です。すなわち、「主イエス・キリストが私たちのために十字架に掛かってくださったこと、復活して私たちに永遠の命を示してくださったこと」をあらわします。私たちは、イエス様が自らの体をもって、福音をあらわしてくださったことに深い感謝をもって礼拝に集います。全身全霊の感謝の礼拝を献げることが勧められているのです。
私たちはイエス様を信じることによって「義」とされた者です。「信仰義認」を体験し、「新生」の恵みを知りました。今や罪から救われた者であると確信しています。そして、神様は私たちに何の見返りも求めません。
「聖化」の恵みは、私たちにはどうすることも出来ない原罪、表に現れない、人間がその根底に持っている罪に対して、神様がその御手を添えて潔めてくださるということです。礼拝者は、礼拝によって、御言葉と聖礼典を通して、そして、聖霊の導きによって、「罪潔められた」と確信を得ることがきるのです。
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