まさか私のことでは
マタイによる福音書26章17~25節
澤田 武師
主題聖句 「イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、『先生、まさかわたしのことでは』と言うと、
イエスは言われた。『それはあなたの言ったことだ』」 25節
「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。」イエス様のお言葉は、過越しの食事を楽しみしていた弟子たちに、衝撃を与えました。
過越しの食事では、エジプトでの苦難を思い起こすために、塩水を入れた鉢にレタスやパセリを浸して、それを前菜として食べます。既に弟子たちは食べ終えていました。イエス様を主として、共に弟子として歩んで来た者たちには、なぜイエス様がこのようなことを「今」言われたのかは理解できません。「わたしの時が近づいた」イエス様だけが、十字架が確かに近づいて来ていることを知っています。
「主よ、まさかわたしのことでは。」弟子たちは代わる代わる言います。マタイによる福音書では「主よ」との呼びかけは、イエス様を信じる者が呼びかける時に用いられています。お言葉は弟子たち自身の信仰、イエス様への信頼を激しく揺さぶります。弟子たちは不安、弱さを改めて見せられました。それでも、イエス様と共に生きることを願った者たちの、弟子としての精一杯の応答です。
ユダも「先生、まさかわたしのことでは。」と応答しますが、ユダには分かっていました。既に裏切りを決めていた自分自身の言葉には真実は無い。マタイによる福音書では、「先生」との呼びかけは、イエス様を信じない者、敵対する者が使う言葉です。ここに、他人には見えない、ユダの心の事実が現されています。
ユダはイエス様を裏切った者です。しかし、その動機から、またユダが最後に選んだことから見て、イエス様の命までも奪うつもりは無かったとも考えられます。
「人の子を裏切る者は不幸だ。生まれなかった方が、その者ためにはよかった。」このお言葉は、イエス様を否定する者、神様を否定する者すべてに向けられた言葉です。このお言葉が自分に向けて語られたと知っていたのはユダでした。最後の晩餐にユダが招かれたことは、神様のご計画として十字架への道が確かに開かれたこと、罪の赦しの御心が、ここでも現されたことを意味しています。イエス様はユダを支配している「この世」から、「先生」と呼びかける者から、もう一度「主よ」と呼びかけ、まことの主に立ち帰る機会を与えたのではないでしょうか。
私たちもユダと同じ罪人です。私たちの中のユダを見ましょう。そして、主よ、と告白して十字架を見上げる者として、生かされて行きましょう。
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