わたしは喜びで満たされている
ヨハネによる福音書3章22~30節
主題聖句 『あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。』 30節
29節、洗礼者ヨハネの言葉 「わたしは喜びで満たされている。」 を説教題といたしました。それは私たちも「喜びで満たされた」信仰生活を送りたいからです。神様が最初に人間を創造された時、神様は人間に必要なものを先に備え、人間が「喜びで満たされて生きる」ようにと、この世界を整えていてくださいました。神様は、創造された全世界を支配させるために、特別に人間を創造されました。神様から人間に与えられた使命は、唯一の神様を礼拝する者として「喜びで満たされて」生きることです。
私たちの思いが、「主の栄光を現す者」、「主を証詞する者」であるならば、私たちの歩みには困難や苦難は無くなります。しかし、現実には様々な困難や苦難を覚えます。それは私たちの心に、他者と比較する心、嫉妬する心、この世の評価に囚われる心があるからです。それは 「対立する心」 となり「対立する心」は、洗礼者ヨハネの言葉 「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」 を受け入れることが出来ない、罪となります。
洗礼者ヨハネはよく信仰者の鏡のような人物と評価されます。自分の役目を知り、イエス様を証するために、備えの道を整えるために生かされた者。そして、役割が終わるとその場から消えて行く者。結婚式の例えで、介添え人の喜びは、「花婿の声が聞こえること」と記されています。介添え人は花婿(イエス様)の親友である者に託された使命です。神様は同じ使命を私たちにも与えられています。私たちは唯一の神様を礼拝し、応答の賛美をお献げします。私たちの生き方全てが、イエス様を証する歩みとなります。
洗礼者ヨハネは信仰を頑張った人物ではないと思います。彼は信仰に励んだ人物です。彼はすべてを神様に委ねました。私たちも信仰生活に励んで行きましょう。決して頑張らないでください。
神様は私たち一人一人をよく知っていてくださいます。欠けだらけの者であることもよく知っておられます。その私たちがイエス様を証する者として、用いられています。この選びにこそ祝福があります。結果を委ねた時に、「わたしは喜びで満たされている」信仰生活が始まります。
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