働き人は知る
ヨハネによる福音書2章1~12節
イエス様の最初の奇跡が「カナの婚礼」で行われたことには、深い意味が隠されています。まず、結婚は神の特別な祝福であり、新しい家庭の始まりですから、イエス様の公生涯が始まるにふさわしい舞台であったこと。また、聖書では、神と人間とを花婿と花嫁にたとえ、偶像崇拝を姦淫にたとえています。神と人間との完全な和解の時がここから始まるにふさわしい場所として、カナの婚礼が選ばれたのではないかと思います。
イエス様は召使いに、6つの水がめを一杯にするように命じます。ひとつが78~117リットル、すべて人力で汲むのはけっこうな重労働です。聖書では7を完全数と捉えますから、そのひとつ手前の6を、これから救いが完全になるしるしと解釈する研究者もいます。
しかしもっとも重要な事は、水がぶどう酒に変わったことと、水を汲んだ召し使いはそれを知っていた、この2つです。パレスチナの地においては、水は豊かさの象徴でした。しかしその豊かさは現実の世の豊かさです。イエス様は最後の晩餐において弟子たちにぶどう酒の杯を渡しながら「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われました。イエス様を知る者の心は、この世の目に見える豊かさに囚われず、まことの豊かさに導かれていくのです。
「このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていた」福音は真理であり、誰にでも開かれます。ちょうど、カナの婚礼に招かれていた人々皆に、ぶどう酒がふるまわれたように。しかし、自らの体を使って働きを捧げた召し使いたちは、奇跡の業に参与しました。働き人こそが、神様の御業を、福音を見るのです。
わたしたちは、教会に集う兄弟姉妹のために、また、まだ教会に来ない人々のためにも祈ります。トラクトやチラシを配り、手紙を出したり訪問したりもします。これは召し使いが水がめに水を汲むのと同じです。イエス様は、いつでも、ご自分の奇跡の業に、わたしたちの働きを用いようとしておられます。いつの世も変わらない主の御業を信じて、その業に加えていただきましょう。