後から来られる方
ヨハネによる福音書1章19~28節
主題聖句 『その人はわたしの後から来られる方で、わたしにはその履物のひもを解く資格もない。』
1章27節
ヨハネによる福音書では、イエス様の公生涯を「洗礼者ヨハネ」の証しの言葉から始めています。
「洗礼者ヨハネ」は自分の存在を 「荒れ野で叫ぶ声」 であると答えます。荒れ野は現実に彼が生活していた所でもあり、同時に「この世の荒れ野」をも意味しています。そこには命がありません。平安も希望もない所。多くの民が貧困や、ローマの支配にあえいで生きている場所、そこには救いはありません。
しかし、その荒れ野にも救い主がお生まれになった。救いが訪れた。この喜びを彼は叫び伝えます。荒れ野は彼の声を消そうとしますが、「主の道をまっすぐにせよ。」 彼は、今その時が来た。準備を怠るなと叫び続けます。
「わたしはメシアではない」と彼はとても強い言葉で、否定します。自分の存在が、イエス様を証しするための「声」であるにすぎないことをも受け入れています。それはイエス様が来られた時、その後は消え去る者であることを自覚しているということです。現代では音源を残すことが出来ます。説教や時代を変えた演説、美しい歌声などを録音して再現することが出来ますが、当時の「声」ヨハネは消え去ります。しかし、語られた言葉は聖書に記されて永遠に残ります。彼は、本当のメシア、救い主が誰であるかを知っていました。真実を知った者には、その真実から遠い、自分の存在が示されます。「洗礼者ヨハネ」は、自分とは誰なのかを知らされた人物でありました。
「後から来られる方」 彼は、イエス様をそう表します。今はまだ誰にも知られていない方である。わたしはその方を証しするために生かされて来た。聖書の中で最も低きに徹した人物であることは間違いありません。だからこそ、いと高き方を指し示すことが、聖なる方を証しすることが出来るのです。
今、あなた方は知ろうともしない。しかし、既に父なる神様の権威を受けられた方が来られている。後から来られる方に全てを委ねた者の姿がここにあります。一切の権威を明け渡した者だからこそ示すことができた、イエス様のお姿がここにあります。