苦難の果てに
使徒言行録27章39~44節
陸地に近づき、ほっとしたのもつかの間、パウロたちに再び命の危険が迫ります。船には何人かの囚人が乗せられていました。中には処刑されるためにローマまで連行される者もいたでしょう。一か八か、海に飛び込んで逃げきれれば、と考える囚人がいても不思議ではありません。一方、ローマの兵士にとっては、囚人を逃がせば重い罰が待っています。ならばいっそのこと、船の上で殺してしまえばいい、ということになります。しかしここで、パウロの存在が彼らの命を救います。百人隊長がパウロを助けたいと思った、これは、神様が彼にそういう思いを持たせた、ということでしょう。
これこそがクリスチャンのあるべき姿です。創世記18章には、ソドムを滅ぼそうとする神の使いに対して、アブラハムが、「その町に正しい人が50人いたら、30人なら、」と食い下がり最後には10人いれば滅ぼさない、という約束を取り付けます。クリスチャンとは、この10人のようなものです。
船にはパウロとアリスタルコとルカの3人のクリスチャンがいました。日常的に、一緒に祈り、賛美をしていたでしょう。百人隊長は、パウロたちの姿に、キリストの真理を垣間見たのでしょう。これは、イエス様の十字架の死を見届けた百人隊長が 『本当に、この人は神の子だった』 と信仰を告白したことを思い起こさせます。
一人のクリスチャンがいるということは、そこで完結するのではなく、その一人が世に発信する何かによって、誰かの心が目覚める可能性をはらんでいるということです。世界中のクリスチャンが、キリストに倣う者、キリストに似た者として、それぞれの日常の一部を捧げています。その姿が、まだキリストを知らない人々にも届いているのです。
神様を信じる人生には、苦難や悲しみはない、ということはありません。神様は、その信仰に合わせて問題を出されます。試験の性質上、上級者になるほど問題は難しくなります。神様からいただく問題を四苦八苦して解く信仰者の姿を、世が見ています。どんな試験でも、まず名前を書き、問題文をよく読むことが大切です。名乗りをあげて、神様の問題にチャレンジしましょう。