命の終わり そして始まり
マタイによる福音書27章45~56節
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」〈46節〉
主イエスは十字架にお架かりになる前に、本来なら私たちが叫ばなくてはならないこの叫びをご自身のこととして、主なる神に嘆き訴えられました。私たちが捨てられないために、私たちの身代わりにイエス・キリストが捨てられました。
私たちは絶望する他ないような時に「神に見捨てられた」と、嘆き恨みをぶつけます。しかし、私たちが神に捨てられたと思っているところ、捨てられても仕方ないと思っているところ、そこに主イエスがおられます。そのことを身をもって十字架上でお示しになられました。
「安心して絶望できる」と、宗教改革者のルターが語っています。どこにも助けがない苦しみの中で、頑張って希望を持とうとしなくても良いのです。絶望することが恐ろしく、絶望の淵から落ちないように何とかそこでふんばろうと、私たちは力を振り絞り苦しみあえぎます。しかし、絶望しても大丈夫なのです。その絶望の底で主イエスが支えてくださるからです。
「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け・・・墓が開いて、眠りについた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出てきて・・・」(50~52節)その時とは、「そして、見よ、」と訳せる言葉です。イエス・キリストが神に見捨てられ、終わりとなったその時を見よ、とあります。つまり、誰が見ても終わりに見えたその時は、終わりではなかったと聖書は2000年以上伝えています。終わりではなく、決定的な出来事として希望の出来事として「復活」したと、命の始まりが記されています。絶望の先にある復活の命です(50~53節)。イエス・キリストによる十字架によって、私たちの絶望が打ち破られました。
この世で絶望に無縁の人はいません。世の悪から、絶望から私たちが勝利するのでもありません。信仰の勝利者となる必要もありません。私たちは相変わらず弱く愚かなままでよいのです。相変わらず苦しみの中で絶望に陥ってもよいのです。そこで主イエス・キリストと出会い、その慈しみと憐みの中で守られていることに感謝できる者とさせて頂ける恵みがそこに備えられています。私たちを救うためにご自身を尽くしてくださる主イエスだけが救われる人生、生かされる人生のあることを、十字架を見上げる度に実感させてくださいます。