イエス・キリストこそすべての人の主
使徒言行録10章9~33節
「今、わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」(33節)神の御言葉に常に耳を傾けよう、それも一つ残らず聞き逃さずに従う為に神の御前に立っている、という異邦人であるコルネリウスたちの信仰告白です。
これまでペトロを初めユダヤ人は、神の民としてのユダヤ民族という自覚とアイデンティティーを保って生きていました。しかし神は彼らの異邦人に対する伝道的な風習や考えを打ち砕くために、ペトロに幻を与え彼が固執していた律法主義を正されたのです(9~16節)。罪からの救いによって得られる永遠の命は、イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰によってのみ与えられるもので、彼らが汚れた民族と思っていた異邦人も含めて全ての人が招き入れられているという神の大きな愛を知る事となりました。
ペトロは「お立ちください、わたしもただの人間です。」(26節)と、ユダヤ人としては驚くべき言葉を異邦人であるコルネリウスに語っています。「わたしも同じ人間です」という意味で、人間皆平等というヒューマニズムではなく、人との間を隔てていた壁が砕かれたという意味で、上から目線では見えなかった理解です。理解するとは英語で〝Under-Stand〞ですが、人を理解するとは人の下に立って初めて理解できるものだと、ある人は語っていますが、それは正に主イエスの歩みです。ペトロはかつて主イエスが十字架にお架かりになる直前に裏切りました。にも拘らず主イエスは彼を赦してくださった事、そしてその愛は自分のみならず全ての民族に注がれている事を初めて知る事となったのではないかと想像できます。彼は今迄の民族意識が打ち砕かれ、上から目線で異邦人を見ていましたが、同じ場へと身を置く事ができて神の愛を初めて理解する者となったのです。そうして民族の壁を越えたキリストの福音を異邦人であるコルネリウスの家で伝えることとなっていきます(34節~)。
今迄の自分の習慣や固執した価値観の中で、自分の考えにこだわる生き方をしていないでしょうか。神の御前に立ち続け、現在の思いを御言葉の光に照らし合わせてみたいです。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか。何が善いことで、神に喜ばれ・・・」(ロマ12:2)